新潟教会 王であるキリストミサ

今日、王であるキリストを守護者にいただく新潟教会で司教と主任司祭のラウール神父の共同司式でミサが行われました。新潟教会の皆様、おめでとうございます。

2021年より、王であるキリストの祭日にあわせて世界青年の日を祝うようになりましたが、今日の新潟教会のミサには大勢の青年が集まり、ミサ前とミサ後にクリスマスに向けた飾り付けをしておられました。ワイワイと賑やかにみんなで飾り付けをするのは楽しいですね。

また、ミサの後には3年ぶりに新潟教会での茶話会が行われました。今後、ミサ後のコーヒータイムを復活させるとのこと。ますます交わりが深まっていくことをお祈りしています。茶話会では、なんとサプライズで誕生日ケーキをいただきました。あたたかいお心遣いに感謝です。ついに50歳になってしまいましたが、変わらず、いつもふくいんをともに生きていきたいと思います。

以下は説教です。

成井大介司教

 

年間最後の日曜日、王であるキリストの主日を迎えました。教会のカレンダーで、最後の日曜日です。来週、待降節を迎え、キリストの降誕と、キリストの再臨に向けて準備を進めていく前に、わたしたちはここ数週間、ミサの中で終末の時に関する聖書の箇所を読んできました。今日の箇所でも、神の裁きについてイエスが教えています。

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

イエスは、最も困難な状況にある人々とともにいます。イエスは、そのような王なのです。イエスは、宣教を始めるにあたり、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」と人々に伝えました。神の国を治めるということは、最も困難な状況にある人が、しっかりとサポートされる。愛に基づいて、つまり、全く無条件に、ただ人であるということだけで、支えられるということなのです。そういう社会、そういう政治が求められています。わたしたちは、イエスがそうしたように、最も困難な状況にある人とともにいるよう招かれているのです。

今日、世界青年の日にあたって、若い人々のことを考えていました。世界のいくつかの国で、力づくで他の国や、他の民族を侵略し、殺すという状況が発生しています。世界の多くの国が、「どちらが正しい」と一方的に判断し、暴力という火に油を注ぐような支援をし、また自分の国も暴力に備えなければ、という世論を創り、軍事力の増強に走っています。

このような時代に生きる青年の皆さんは、どんな思いで世界を見ているでしょうか。新潟教区にはベトナム出身の青年が多くいますが、たった50年前、恐ろしい戦争を経験した皆さんは、どんな思いで今の時代を生きているでしょうか。

わたしは、25年もの長い間内戦を続けた国で行われていた、カリタスの平和構築のための支援活動の視察に行ったことがあります。互いに争う民族の地域の境界線が近づくにつれ、国道沿いに200メートルごとに塹壕が築かれ、兵士が銃を持って道行く車を見張っていました。1,2キロごとにチェックポイントがあり、車を止められ、チェックされました。ある町に入ると、大きなパネルに兵士の写真が飾られ、そのパネルを先頭に行列を組み、行進が行われていました。その町出身の兵士が亡くなり、英雄として称えて行進していたのだそうです。町で、普通の家庭の、普通の中高年のお母さんに話を聞きました。敵の民族は、人間ではない。悪魔とか、宇宙人のようなものだと言っていました。暴力は、人を殺しますが、生きている人の心も殺します。暴力は、人の尊厳を貶めます。

教皇フランシスコは、兄弟愛と社会的友愛について書いた回勅、「兄弟の皆さん」261項で次のように述べています。

「どの戦争も必ず、世界を、かつての姿よりもいっそう劣化させます。戦争は、政治の失敗、人間性の欠如であり、悪しき勢力に対する恥ずべき降伏、敗北なのです。理屈をこねるのはやめて、傷に触れ、犠牲者のからだに触れようではありませんか。「巻き添え被害」で殺戮された無数の民間人を、しっかり見つめようではありませんか。犠牲者に尋ねようではありませんか。避難民、被爆者や化学兵器の被害者、わが子を亡くした母、手足を失った子や幼少期を奪われた子どもたちに、目を向けようではありませんか。こうした暴力の犠牲者が伝える真実に意識を向け、彼らの目を通して現実を見つめ、開かれた心で彼らの話に耳を傾けようではありませんか。そうすれば、戦争の根底にある悪の深淵に気づけるようになり、平和を選ぶことで愚直だといわれようとも動じることはないのです。」

 皆さん、わたしたちは、身近なところで飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢にいる人、困難にある人を大切にしましょう。そして、こうした人々が大切にされる社会を作るために、自分にできることをしましょう。神の独り子が、人を愛するが故に、神と人という境界線を超えて人となり、神がどれほどわたしたちのことを愛しているのか示してくださったように、わたしたちも愛を持って一歩踏み出し、人々とともに歩んでいきましょう。

「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」