2021年 年頭書簡

二〇二一年 年頭司牧書簡

 

いつも ふくいんを ともに

 

新潟司教 パウロ 成井大介

 

新潟教区の皆様

主の御降誕と新年のお慶びを申し上げます。

2020年という年は皆さんにとってどのような年となったでしょう。多くの皆様が、2019年11月末の教皇来日で、日本において信仰を生き、福音を広め、命が大切にされる社会を築いていく決意を持たれたのではないかと思います。しかし新型コロナウイルス感染症は、わたしたちだけでなく世界中の人々の計画を中断させ、誰もこれまで経験したことのない手探りの生活が始まりました。教会に集うことができなくなり、集ってもマスク越しの短い会話しかできず、行事や会食などはできなくなりました。特に、ご高齢の方、健康に不安のある方にとっては、実に厳しい一年となってしまったのではないかと思います。また、教育や医療、介護、人々の暮らしを支える様々なサービスに関わる皆様にとっては気苦労の絶えない一年だったと思います。しかしこの経験を通して、普段それほど気にしないこと、例えば笑顔、挨拶、寄り添い、人を大切に思う気持ち、祈り、いのち、神への信頼などがどれほど大切かということを再確認できた年でもあると思います。

このような状況の中、司教叙階式を心を込めて準備し、遠い国からやってきたわたしを温かく迎えてくださったことに改めて感謝いたします。未だ今後の明るい見通しは立っていませんが、暗闇の中に明るく光る希望、主イエスに信頼して、福音の喜びのうちに歩んでいきたいと思います。

 

モットー 「いつも ふくいんを ともに」

司教として皆様にご理解いただきたいこと、大切にしていきたいことをこのモットーに込めました。これからの新潟教区における活動を進めていくにあたり、心に留めていただけたらと思います。

 

ふくいん

福音とは、英語でGood News、神からの良き知らせのことです。良き知らせとは、神の国がイエスの到来と共に始まったこと、つまり神の力や思いがわたしたちのこの世界でイエスを通して行使され、伝えられたということです。神の力や思いとは、神がこの世のすべての権威、さらには死にさえ打ち勝つ力に満ちていること、そしてすべての人を深く愛しておられるということです。

マルコはその福音書1章14節で次のように伝えています。

イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

これは、イエスが荒れ野で誘惑を受けた後に宣教活動を始め、最初に言われた言葉です。イエスがご自分の活動を通して最も伝えたかった、気持ちのこもった言葉なのではないかと思います。その、同じ福音を、同じ気持ちをわたしたちも受け止め、自分のものとし、伝えていきたい。そう願っています。

福音はまた、イエスの存在そのものを意味する言葉としても使われます。ヨハネによる福音書の冒頭には、次のように書かれています。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。万物は言によって成った。…言は肉となってわたしたちの間に宿られた。

イエスはこの世に受肉した神のみ言葉であり、その受肉したみ言葉は人々の間にとどまりました。これは、過去に起こって今はもうわたしたちに関係のない出来事なのではありません。わたしは世の終わりまで共にいると約束して下さった(マタイ28章20節)ように、今も、受肉されたみ言葉はわたしたちの間に宿っておられるのです。そして、イエスご自身が「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)と仰ったように、特に弱く、貧しく、社会でのけ者にされている人との間においてわたしたちはこの受肉したみ言葉と出会うことができるのです。

福音書にはイエスという方の人となりが生き生きと描かれています。この、良き知らせそのものであるイエスという方の全体像を聖書を読んだり、講座に参加したり、解説書を読んだりすることによって自分の中で育てていき、自分の言葉で福音を他者と分かち合い、生活に生かしていくことができたらと願っています。

 

いつも

新潟教区は多様な信徒の方々で構成されています。わたしの司教の紋章にある、聖書を掲げる二つの手の色が違うのは、この多様性を表しています。子ども、青年、大人、高齢者といった、世代の多様性。信徒、修道者、司祭、司教といった、立場や生き方の多様性。県内、県外、海外という出身や文化、言葉の多様性。性別、幼児洗礼と成人洗礼、未婚者と既婚者、洗礼を受けた人、受けていない人、その他多くの違いを持った人々が、神から福音の道に招かれて秋田、山形、新潟で生きています。このモットーには動詞が含まれていませんが、それはこうしたそれぞれ違う人々が、福音に関して自分にできる何かを行っていっていただきたいからです。小さな子どもは友達と仲良く遊ぶことができるかもしれません。仕事に振り回される社会人は、大変な時に笑顔を見せたり。病床にある人は、祈りを。集いでは聖書の分かち合いを。わたしたちは、いつでも、自分ならではの仕方で福音を生きることができます。ぜひ日常の中で福音への関わり、取り組みを育てていってほしいと思います。

 

ともに

福音は、一人で証ししたり、伝えていくのは難しいものです。それは、勇気がないからとか、知識や技術がないからとか、そういう理由ではありません。福音とは先に述べたとおり、神の人に対する思い、神から人に向けられた愛のことです。愛は、一人だけで表すことができません。相手が必要です。考えてみて下さい。もしイエスが弟子を取らず、一人で宣教して回ったとしたら、神の愛はわたしたちまで伝わってきたでしょうか。もし福音書に、弟子たちとのやりとりや、宣教旅行の途中で出会う人々についての記事が無く、ただイエスの教えだけが書かれていたとしたら、神の愛は伝わるでしょうか。イエスが弟子たちに教えたり、諭したり、宣教の実りを喜んだり、一緒に祈ってほしいと願ったり、一緒に食事をしたりする様子から、わたしたちはイエスが弟子たちや人々をどれほど愛しておられたかを感じ取ることができるのです。

こう考えると、わたしたちは福音を伝えていく時、人々とともに行動することが大切です。もしくは、生活の中で信徒、または信徒でない方と接する時に、「今、神の愛がこの人とわたしの間で表せるように」と心がけて行動することが大切です。福音は、人との間で愛を表す時に広がっていくのです。

もう一つわたしが強調したいのは、「ともに」何かをする時、自分とは文化や背景の違う人と一緒に取り組むことの大切さについてです。世界の至る所で、世代間の違い、移民と地元民の違い、価値観の違いといった、様々な違いが大きくなりすぎて一つの共同体を作るのが難しくなってきています。こうした中、教会はなんとかして「ともに」信仰共同体を形成していこうと努力を重ねてきました。日本の教会も例外ではなく、こうした違いはこれから間違いなくもっと大きくなっていきます。このような状況にあって、「Interculturality」をキーワードにして共同体形成に努める様々な国際修道会や移民が多い教区が増えてきています。これは、自分自身の個人的、文化的背景をまず理解し、次に他者の個人的、文化的背景についても理解に努め、他者と関わることによって自分が変えられる勇気を持って相手を受け入れ、互いに変えられ合い、共に成長していくという概念です。イエスがシリア・フェニキアの女性に出会った時、この女性は自分の娘から悪霊を追い出してほしいと願いました。イエスは、「子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」とたとえを用い、自分はユダヤの人の元に遣わされたのだから、と言ってやんわりと断りますが、この女性は「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」と食い下がります。それでイエスは、「それほど言うなら」と、子どもの悪霊を追い出すのです(マルコによる福音7章)。このやりとりからわたしたちは、母の子を思う愛、イエスを信じる母の気持ち、母の愛に心動かされるイエスの愛を感じ取ることができます。わたしたちの神は、愛によって自分が変えられることを良しとする方で、それによってより大きな愛が示されるのです。わたしたちもイエスの姿勢に倣い、積極的に背景の違う人たちと交わり、ともに成長していけたらと願っています。

 

今年の計画について

今年、新潟教区は司祭評議会と宣教司牧評議会という、各地区を代表する司祭と信徒によって構成される司教の諮問機関を組織し、教区の取り組むべき課題についての検討を始めます。このプロセスを進めるにあたり、評議員の方々だけでなく、教区のすべての皆様に新潟教区がこれから取り組むべき課題について考え、話し、評議員の方々に伝えていっていただけたらと思います。なお、これまで新潟教区で取り組んできた2012年の宣教宣言の三つの項目について振り返ることがその助けになるかと思います。

  1. 世代、国籍、文化の違いを乗り越え、喜びと思いやりにあふれた「私たちの教会」を育てる。
  2. 教区、地区、小教区において、お互いの情報を共有し交わりを深めることで、社会における教会の役割を自覚する。
  3. 継続した信仰養成を充実させ、社会の現実のうちで言葉と行いを通じて福音を証しする信仰者へと脱皮する。

教皇フランシスコは、昨年12月8日から今年の同日までの一年をヨセフ年と定め、聖ヨセフの取り次ぎに信頼し、聖人の素朴な信仰を模範として生きるよう呼びかけられました。新型コロナ感染症が今年どのような影響を社会に与えるにしろ、しっかりと対策を取りつつ信仰を生きて参りましょう。また教会内外に困っている方がおられたら、声をかけあい、支え合っていけたらと思います。

今年で東日本大震災から10年目を迎えます。隣の教区の隣人として、祈りと行いによってこの節目の時をともに迎えましょう。

今年は岡秀太神学生が助祭に叙階される予定です。皆様のこれまでのお祈りとご支援に感謝するとともに、この大切な時にあたり特に祈りを捧げてくださいますようお願いいたします。

皆様の上に、神の豊かな祝福と導きがありますよう、お祈りしています。皆様どうぞ、わたしのためにもお祈りください。

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