本日、新潟教会にて新潟教区における2025年通常聖年開幕ミサが行われました。普段、新潟県が雪マークの時でもほとんど降らない新潟市ですが、今朝は5センチほど積もりました。にも関わらず、新潟教会、また近隣のいくつかの教会から多くの信徒が集まり、また司式は教区事務局長の大瀧神父も加わり、4名で行いました。
ミサの最初に、聖年の開幕式が行われ、キリストの十字架を通した希望に思いをはせ、聖水を受けてキリストのいのちにあずかる恵みを祈りました。
新潟教区では、今日を皮切りに100周年の十字架が各教会、修道院を巡ります。わたしたちが教区として希望の歩みをともにする一年でありますように。以下、説教+αです。
成井大介司教
12月24日、主の降誕夜半のミサにて、教皇フランシスコは聖ペトロ大聖堂の聖なる扉を開き、2025年通常聖年が開幕しました。この聖年は1年続き、2026年1月6日の主の公現の祭日に閉幕します。新潟教区を含む地方教会では、今日、12月29日の聖家族の祝日に開幕ミサが、そして2025年12月28日に閉幕ミサが司教座聖堂で行われます。
免償
聖年の間、全免償が、特定の条件を満たすことで与えられます。免償とは、犯した罪に対する償い(罪に対する罰)の赦免のことで、自らに対しても、また煉獄の霊魂に対しても免償を受けることができます。詳しくは、新潟教区のウェブサイトに解説を載せましたので、そちらを見ていただきたいのですが、大切なのはその免償がどのような背景で与えられるかということだと思います。
レビ記25章には、「ヨベルの年」についての解説が書かれています。これは、50年に一度巡ってくる年で、この年には畑を休ませたり、人に売った土地が返却されたり、同胞のしもべが解放されたり、負債が免除されたりします。このことをレビ記は「この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である」と記しています。
この習慣が、キリスト教では25年に一度巡ってくる聖年として受け継がれています。ですので、ただ単に全免償が受けられる年というのではなく、神の前にすべての人が尊く、権利を侵害されていたらその状態を解消し、持ち物を搾取されていたらそれを返し、負債から解放される。言ってみれば、教皇フランシスコが『ラウダート・シ』で教えた、神と、人と、被造物との正しい関係を取り戻す、そのような年として理解することが大切だと思います。
教皇フランシスコは、2025年通常聖年を公布する大勅書、『希望は欺かない』の最初で、次のように述べています。
「すべての人にとって聖年が、救いの「門」である主イエス(ヨハネ10・7、9参照)との、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように。教会は、主イエスを「わたしたちの希望」(一テモテ1・1)として、いつでも、どこでも、すべての人にのべ伝える使命をもっています。」
つまり、イエスこそが、神と、人と、被造物との正しい関係を生きる模範であり、そのイエスとの生き生きとした個人的な出会いを持つことで、イエスに倣って生きていきましょう。そして、そのイエスを人々に知らせていきましょう。そう教皇は呼びかけているのです。
聖なる扉
さて、聖年の一つのシンボルは、扉です。ローマでは聖年に聖ペトロ大聖堂、ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、城壁外の聖パウロ大聖堂の聖なる扉が開かれます。聖なる扉は、イエスご自身のことを意味しています。聖ヨハネ・パウロ2世は、2000年の大聖年の開幕を告げる大勅書で、次のように述べました。「イエスは、「わたしは門である」(ヨハネ10.7)と言われました。ご自分によらなければ、だれも御父に近づくことができないことをお示しになるためでした。…神との交わりのいのちに入るために開かれる門は一つしかありません。この門がイエスであり、救いの唯一、絶対の道なのです。」(『受肉の秘儀』8)聖ヨハネ・パウロ2世は続いて次のように教えます。「門を通るということは、イエス・キリストは主であると告白すること、キリストがわたしたちに与えた新しいいのちを生きるためにキリストへの信仰を強めて告白することです。」
教皇フランシスコは、先週のクリスマスに、「ローマと全世界へ」向けたメッセージの中で、次のように語りかけました。
「兄弟姉妹の皆さん、神の心の扉はいつも開いています。神に立ち返ろうではありませんか。わたしたちを愛し、赦されるその御心に帰りましょう。神に赦していただきましょう。神と和解させていただきましょう。
昨晩、ここ聖ペトロ大聖堂でわたしは聖年の聖なる扉を開きました。聖なる扉、それはすべての人に開かれた救いの扉、イエスを意味します。イエスはいつくしみ深い御父が世界の、歴史の真ん中に開けた扉です。それはわたしたちが神に立ち返るためのものです。わたしたちは皆、道を見失った羊として、羊飼いと、御父の家に戻るための門を必要としています。イエスは羊飼い、イエスは門です。」
聖なる扉は、教皇が指定した、ローマの五つの聖堂の扉ですが、その扉が意味するイエスという扉は、いつでも、どこでも、すべての人に対して開かれています。それこそ、わたしたちの当たり前の毎日の生活の中で、わたしたちが個人的に、イエスと出会っていくことが、イエスという扉をくぐることなのです。
希望
教皇フランシスコは、今回の聖年のテーマを「希望の巡礼者」と定めました。戦争や災害、人々を分断する政治や社会の現実の中で、しばしばわたしたちは希望というものを見失うことがあります。教皇は大勅書の柱となる聖書の箇所としてローマの信徒への手紙5章を引用しています。
「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。……希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」
希望は、誰に対してでも、どんな状況においても、豊かに注がれる神の愛から生まれます。わたしたちに求められているのは、聖霊の導きにより、その愛を示してくださったイエス・キリストと日々の生活の中で出会っていくことです。わたしは宣教司牧方針の最後に、次のように書きました。
「神を信じる者には、希望があります。希望とは、将来に向けて計画し、計画に必要な条件を満たすことで手に入れることができるものではありません。日々、喜びも、悲しみも、何気ない日常もともにし、神に信頼してともに歩んでいく中で、今を生きる喜びが生まれてくることを希望と呼ぶのです。わたしはこの宣教司牧方針が、共同体として希望をもって歩んでいくための手助けになればと願っています。」
自分に何ができるか、何をしたか、どのような立場にいるかなどに関係なく、ただ神に信頼してともに希望の道を歩んでいきたいと思います。
巡礼
もう一つ、聖年のシンボルについて考えてみたいと思います。それは、巡礼です。聖年において、巡礼はすべての行事の基本要素となっています。教皇は昨年の世界青年の日のメッセージで、巡礼について次のように語っています。
「親愛なる若者の皆さん。わたしが招いているのは、愛の軌跡に沿って、神のみ顔を探し求めつつ、人生を明らかにしようとする旅への出発です。」
巡礼で、わたしたちは祈ったり、訪問先の人と交わりを深めたり、その土地の文化や歴史を学んだりします。そのすべては、神のみ顔を探し求めることなのです。わたしたちは、キリストの再臨の時に神のみ顔をはっきりと見ることになりますが、今、日々の生活の中の様々な場、様々な出来事を通して、神のみ顔を少しずつ見ることができます。イエスは祈りや、様々な出来事や、被造物を通して神の働きを感じる、驚きのまなざしを持っていました。巡礼とは、誤解を恐れずに言うと、たとえどこかに行かなくとも、イエスの驚きのまなざしを持って、周りにあるものや出来事を通して神がわたしに今語りかけている言葉に耳を傾け、日々を生きるということだと思います。逆に言うと、巡礼旅行に参加しても、きれいな写真を撮ることや美味しい食事を取ることに心を囚われていたら、それは巡礼とは言えないのだと思います。
最後に、教皇フランシスコがその大勅書の最後に記した、この聖年を通して望んでおられることを読んでこの説教を終わりたいと思います。
「ですから次の聖年は、ついえることのない希望、神への希望を際立たせる聖なる年です。この聖年が、教会と社会とに、人間どうしのかかわりに、国際関係に、すべての人の尊厳の促進に、被造界の保護に、なくてはならない信頼を取り戻せるよう、わたしたちを助けてくれますように。信じる者のあかしが、この世におけるまことの希望のパン種となり、新しい天と新しい地(二ペトロ3・13参照)―主の約束の実現へと向かう、諸国民が正義と調和のうちに住まう場所―を告げるものとなりますように。
今より、希望に引き寄せられていきましょう。希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。わたしたちの生き方が、彼らに「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27・14)と語りかけるものとなりますように。主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように。わたしたちの主イエス・キリストに賛美と栄光が、今も、世々に至るまで。」