先ほど主の復活の日中のミサを新潟教会で行いました。ベトナム出身の皆さんが大勢参加して、賑やかなミサになりました。「ガリラヤで会いましょう」と復活のイエスは言います。ガリラヤは辺境の地で、様々な国から来た人が集う場所でした。まさに今日の新潟教会は、ガリラヤで主と集う弟子たちのような共同体。うれしいひとときとなりました。以下は説教です。
皆さんは、子どもの時に迷子になったことがありますか?多分誰でもあると思います。その時のことを覚えていらっしゃるでしょうか。
親とか、お姉さん、お兄さんと一緒にお祭りとか、買い物とか、もしくは少し遠くの公園に散歩に行って、自分が何かに夢中になっているうちにはぐれてしまう。多分そんな経験があるのではないでしょうか。
子どもにとって、親や、兄、姉などの保護者。自分の年上で、自分を守ってくれる存在が一緒にいるというのは、もう絶対的なことで、その人無しに自分が一人でいるというのは有り得ないことですよね。これらの保護者は、いて当たり前だし、自分の一部のようなもの。自分を守って当たり前。なので、自分が気をつけて、その人と一緒にいるようしなくても、あちらが自動的に自分のそばにいてくれる。そういう存在だと思います。
それで、その人がいないと言うことに気づくと、戸惑い、混乱して、何も分からない、何もできなくなってしまう。自分が急に、広い世界の中でひとりぼっちになってしまったようで、怖くて、悲しくて、涙が出てくる。周りの大人にどうしたの?と聞かれても、混乱してしまって、ちゃんと答えることができません。
泣き声や、騒ぎを聞きつけて親や、姉、兄が自分を見つけ、駆け寄ってきて、「ちゃんと一緒にいなきゃ駄目でしょ」としかるわけですが、そんなこと耳に入らない。逆に、「どうしてどっか行っちゃったの!」と怒ったりする。それで、ただただホッとして、抑えていた感情が外にあふれ出て、かえって大声で泣いてしまう。
そんな経験が、きっとあるのではないでしょうか。もしくは、そんな光景を見たことがあるのではないでしょうか。
マグダラのマリアや弟子たちも、きっと似たような状況にあったのではないか、と私は思います。
マグダラのマリアは、墓の石が取りのけてあるのを見て、イエスの遺体を誰かが取り去ったのだと考えました。イエスが殺され、遺体まで取り去られてしまった。今日の福音のすぐあとの箇所によると、マグダラのマリアはペトロたちが家に帰ってしまってからも墓の前に残り、一人泣いていました。もう、どうしたら良いのか分からない。きっとそんな気持ちだったのではないでしょうか。しかし、そこにイエスが現れます。マグダラのマリアは喜びのあまりイエスにすがりつきます。イエスはそれから度々弟子たちに現れます。エマオへの旅でイエスに会った弟子たちは、「心が燃えていた」と分かち合います。湖で漁をしていた時にイエスに出会った弟子たち。イエスだと分かると、ペトロは湖に飛び込んで、泳いでイエスの元へ行きます。
当たり前のように自分といつも一緒にいて、自分を守って、その人無しには自分の人生は考えられない、有り得ない、と思っていたイエスが殺され、取り去られ、そして自分の目の前に現れたのです。マグダラのマリアも、弟子たちも、生前のイエスに置いていた信頼とはまた別のレベルでイエスにより頼み、イエスがともにいてくださることを感じるようになったのだと思います。
わたしたちも、マグダラのマリアや弟子たちと全く同じように、復活したイエスに出会い、信頼を深めていくよう招かれています。
自分の毎日の生活の中で、イエスが自分と一緒にいて当たり前。自分を守って当たり前。絶対に、何があっても、どんな危険や絶望に直面していても、誰が私を見捨てても、イエスは必ず自分と一緒にいて、永遠のいのちで自分を満たしてくださる方だ。と、堂々と、半ば図々しくも、信じるよう招かれていると思います。
イエスが、度々ふらふらと離れて行ってしまう自分のために、十字架につけられて死に、復活して、新たないのちのうちに自分を生かして下さっているんだと信じるよう、招かれていると思います。
イエスが御聖体の形で自分のうちにとどまり、自分と交わり、自分が迷子にならないように、キリストのからだとしての教会共同体との交わりに招いて下さっていることを信じるよう、招かれていると思います。
そして、復活されたイエスがともにいてくださる喜びを、人々に伝えていくように、神がすべての人を愛していることを言葉と行いで証ししていくように、招かれています。
皆さん、今年はコロナ禍だけでなく、年度末と年度初めが聖週間に重なってしまいました。この忙しい時に、神にしっかりと心を向けて過ごすのはなかなか大変なことであったと思います。しかし、忙しいさなかにこそ、心に余裕がない時にこそ、希望が持てない時にこそ、イエスはわたしたちの揺るぎないよりどころとしてともにいてくださいます。子どものように主に信頼し、復活のいのちの豊かさに満たされ、その喜びを人々に伝えて参りましょう。