聖母の被昇天

新潟教会9:30の聖母の被昇天のミサは司教司式で行われました。聖母マリアの模範に倣って、神への信頼のうちに生きる恵み、そして平和な社会実現のための取り次ぎを願いました。また、今日は前教区長タルチシオ菊地功大司教の霊名の祝日でもありますので、菊地大司教のためにお祈りいたしました。以下は説教です。

8月15日は、日本に住むカトリックの信徒にとって少し慌ただしい時ですね。被昇天。お盆。終戦記念日。平和旬間。様々な行事が重なります。今年はそれに加えて、大雨や新型コロナの感染拡大が続いて、移動したり、集まったり、食事をしたりするのも中々自由にならない、なんとも厳しい状況の中で迎える被昇天になってしまいました。

考えてみると、聖母マリアは、平和の元后と呼ばれます。戦争の愚かさを振り返るわたしたちの模範です。

また、復活のいのちの初穂となられた方です。死者のために祈るにあたり、わたしたちに希望を与えて下さいます。

そして、聖家族にあって、母として神の独り子に寄り添った方です。通常であれば家族として集うこの時期、中々思うように集まれないわたしたちの慰めです。

まさにこの8月15日という時、わたしたち日本で生きるキリスト者にとって、聖母マリアはとても身近な模範であり、希望であり、わたしたちの願いを神に取りなして下さる方だと言えるのではないでしょうか。

さて、エルサレムでは、すでに5世紀の半ばには8月15日に聖母マリアを記念する祝いが始まりました。9世紀にはマリアの被昇天という名称での祝いが定着し、最終的に1950年、ピオ12世が被昇天を教義として次のように宣言しました。

「われわれの主イエズス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の⺟、終⽣処⼥であるマリアがその地上の⽣活を終わった後、⾁⾝と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓⽰された真理であると宣⾔し、布告し、定義する」

カトリック教会のカテキズムは被昇天について次のように教えています。

「最後に、原罪のいかなる汚れにも染まらずに守られていた汚れなき処女は、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主から、すべての者の女王として高められました。それは、主たる者の主であり、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがより良く似たものとなるためでした。」聖マリアは天にあげられることによって御子の復活に特別な仕方であずかり、他のキリスト者の復活を先取りされました。

聖母マリアは、イエスの誕生から死と復活に至るまで、イエスの近くで母として寄り添われた方です。十字架の死と復活の恵みにも、マリアは一番近くであずかりました。そうして、後に続くわたしたちの希望となり、取りなしてくださるのです。

ローマにいた頃、プリシッラのカタコンベという、ローマの北の方にあるカタコンベを訪問したことがあります。カタコンベというのはローマ時代の、地下に掘られたお墓ですね。プリシッラは小さなカタコンベなのですが、壁に描かれたフレスコ画が鮮やかに残っていることで有名です。残っている絵の一つに、3世紀頃に書かれたとみられる、女性が赤子を抱いている絵があるのですが、これは聖母子像ではないか、そして、もし聖母子像であるなら、これが今残っている物の中では、世界で最も古い聖母子像だと言われています。

その、ぼんやりとした1800年前に描かれたフレスコ画を眺めていてですね、大切な家族が眠るお墓に、聖母子の絵を職人に描いてもらって、亡くなった家族の永遠の安息、復活のいのちへの取り次ぎを願う家族の思いが伝わってきて、なんと言えば良いのでしょうか、キリスト者は歴史を通じてずっと、神の母、教会の母であるマリアを、自分自身の希望として、模範として、取り次ぎを願う方として、身近に感じてきたんだなあとしみじみと思いました。

今日の福音朗読で、エリサベトはマリアに「主が仰ったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言います。まさにその通り、マリアはその生涯を通じて主の言葉を信じ、決断、行動しました。しかし、考えてみてください。マリアの生涯は、苦しみ、悲しみ、悩みが非常に多いものでした。確かにマリアは幸いな方ですが、自分には理解できない数々の出来事に苦しめられた人生を送られました。神のいのち、神の恵みが豊かに与えられると言うことは、決して悩み、苦しみのない人生を送ることができると言うことではありません。むしろ、どんな悩みも、どんな苦しみも、神の独り子を通して示された私への愛に比べれば小さなものだ、という信仰によって、わたしたちは希望のうちに幸いなものとして生きていく事ができるのです。聖母マリアはその最大の模範です。

マグニフィカトは、人間が、地位や、名声や、権力や、富によって幸せになるのではなく、ただ、神の愛、神のあわれみによって幸いに生きることができるということをとてもはっきりと伝えてくれます。コロナ禍が世界中を混乱に巻き込み、いのちの価値、人生の意味、幸せとは何なのかという人間にとって根本的な問いに向き合っているわたしたちにとって、とても大切な教えです。どうか、わたしたちが聖母マリアに倣い、希望のうちに神に信頼して歩んでいくことができますように。

最後に、ご一緒にマグニフィカトを唱えたいと思います。

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。