2022年主の降誕日中のミサ

皆様、主の御降誕おめでとうございます。25日は晴れ間が見え、穏やかな日になりました。神に感謝ですね。
以下は新潟教会での説教です。

今日は、主の降誕の祭日であると同時に、2022年最後の日曜日ですね。私たちの間に宿られた神は今年一年間、自分と、共同体と、そして世界と、どのようにともに歩んでくださったでしょうか。皆さん、ぜひ今日、もし時間がなければ年末までの間に、このことについて静かにふり返ってみてください。

私は、特に二つのことが心に浮かんできます。一つ目は、シノドスのことです。全世界で、私たちキリスト者は、共同体として、そして社会とどのようにともに歩んでいくことができるのか、話し合いました。新潟教区でも、すべての教会で工夫して意見交換が行われました。その中で、私たちは少子高齢化や、世代間、出身国の違いのギャップ、コロナ禍による制限など、様々な課題に直面していることを改めて認識しましたが、同時にそうした状況を工夫して乗り越えていく動きもたくさん見えてきました。特に、オンラインで行われた教区大会は、様々な課題に教区全体で挑戦した素晴らしい取り組みだったと思います。私たち教会共同体は、キリストに呼び集められ、キリストによって一つになり、ともに歩みます。今年は、キリストが私たちの間に宿られ、共にいてくださることを強く感じた一年だったのではないかと思います。

二つ目は、2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻し、戦争が始まったことです。2022年に大国が戦争を仕掛けるということを目の当たりにし、私たちが生きている世界のバランスが非常にもろいものであるということを思い知らされました。それ以降、日本を含む多くの国が軍備増強に動き、世界情勢は緊張が高まっています。私は、以前住んでいた修道院で難民の人々をお世話していましたし、様々な国の難民キャンプに司祭を派遣する仕事もしていました。ウクライナにも知り合いのシスターがいて、連絡を取っています。難民の人たちは、圧倒的な暴力にさらされた心の傷、希望を持つことの難しさ、避難先で冷たくされる悲しみに直面します。それでも、一緒にご飯を食べたり、お茶を飲みながら話をしたり、笑顔で挨拶したりする小さな喜びが深く心を動かし、生きる力を生み出すことを見てきました。ご自身が、圧倒的に弱い存在として生まれてきたイエス。難民としてエジプトに逃げなければいけなかったイエスが、この人々と共におられます。弱いまま、傷ついたまま、でもどのような暴力によっても決して壊されることのない、神の愛によって人々を包んでおられる。その愛によって自分も神と人々とともに歩まなければいけない、何度もそう思った一年でした。

毎年、主の降誕の日中のミサで私たちは、ヨハネによる福音書の冒頭を読みます。

はじめに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
言は肉となって私たちの間に宿られた。

この、神秘的な語り口を通して、ヨハネによる福音書は、神の独り子が創造の時から父である神と共におられたこと。その独り子が受肉し、人となって私たちの間に共におられることを教えています。

マタイの福音書では、その冒頭で、イザヤの預言の成就として、イエスこそが「インマヌエル」「神は我々と共におられる」方であると言われ、また福音書の最後では、イエスが「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」と弟子たちに伝えます。

シノドスの旅を進めるにあたって最も大切なことは、まず誰よりも神が私たちとともにいてくださるということをしっかりと受け止めることでしょう。その意味で、今日、神が人となって私たちの間に来て、共にいてくださることを祝う日に、ともに歩むことについて考えるのはふさわしいことではないかと思います。

福音記者ヨハネは、福音書の17章で、今日読まれた冒頭の箇所に関連して神が共におられることについて教えています。少し長いですが、読みます。

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

ここで言われているのは、まず、イエスと父である神は、互いにつながり、共にいて、一つであること。イエスを見るということは父である神を見るのであり、イエスの言葉は父である神の言葉であること。そして、父である神がイエスを愛するように、私たちをも愛しておられること。その愛を示すためにこそ、独り子が人として生まれてきたこと。そして、イエスにつながる人々は、イエスと共にいて、イエスによって父である神と共に、一つになることです。

「初めに言があった」というヨハネの福音を読むと、神秘的で、どのように理解していいのか悩むこともあると思いますが、実はそこで言われていることは非常に単純で、難しいことなど何もないのです。イエスは、私たちを愛しているからこそ、この世に生まれ、私たちを愛しているからこそ、共におられるのです。それだけです。

わたしたちは、イエスによって神と、人とともにいます。それは、神の愛を受け止め、分かち合い、伝えるためです。皆さん、これこそが、教会共同体です。

最後に、愛のうちに共に歩む、ということを実践することについて、少し考えてみましょう。教皇フランシスコは、2020年に出した回勅、『兄弟の皆さん』で、兄弟愛や社会的友愛について教えています。その中で教皇は、善きサマリア人のたとえを用いて、次のように教えられました。

サマリア人は、当時の一部のユダヤ人からは、卑しく汚れた存在とみなされており、助けるべき親しい人ではありませんでした。ユダヤ人であるイエスが、この発想を完全に覆します。自分にとって近しい人はだれかと自らに問うのではなく、自分自身が近しい者、隣人となるよう招いておられるのです。

示されているのは、自分の所属する集団の仲間かどうかにかかわらず、助けを必要としている人の前にいるようにということです。この場合、サマリア人が、傷ついたユダヤ人の隣人となったのです。近しくそこにいるために、あらゆる文化的、歴史的な垣根を突き破ったのです。イエスは要求をもって締めくくります。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10.37)。(FT 80、81)

皆さん、神は、私たちの間に宿られました。民族や、信条などの制限なく、例外なくすべての人の間に宿られました。私たちも、ともに歩む人を選ぶのではなく、すべての人と共に歩んでいきましょう。力ではなく、愛によって、ともに歩んでいきましょう。

私たちの歩みの上に、幼子イエスの豊かな祝福と導きがありますよう、お祈りいたします。