19:00より、新潟教会で主の晩さんの夕べのミサが行われました。久しぶりに洗足式も行われ、聖なる三日間の初日の豊かな典礼をともに祝うときとなりました。以下は説教です。
私はこれまで、様々な国の貧しい地域、例えばスラム街のようなところを訪問したり、数ヶ月滞在したりしてきました。
貧しいところには子どもがたくさんいます。子どもは、幼稚園にも、小学校にも行けないので、いつもその辺で遊んでいます。親は忙しいか、それか酔っ払っているので、あまり子どもの面倒を見ません。小さな子が、より小さな子の面倒を見ます。自分の背の半分以上もある子を、腰骨のところに乗せて片手で抱っこするんですね。それとか、特に目的もなく手を引いて、その辺を歩いて行く。あと、小さな子を自分の前に座らせて、後ろから髪の毛を分けながらシラミを取る。子どもたちは、小さい子どもを実によく世話するんですね。
家を訪問して、お母さんに、生活状況や、将来のことなどについて話を聞くこともあります。お母さんは、子どもを膝の上に抱いて、話をしてくれます。子どもは、外国からやってきた私を訝しがりながら、お母さんの膝の上で甘えています。
そこには、お金も、食べ物も、まともな着るものも、教育も、寒い国では暖房も、何もない。でも、だからこそ、モノではなくて、自分自身を与える、という「愛」が際立っているんです。まるで手を伸ばせば触ることができそうなほど、はっきりとした形で愛がそこにあります。そんな様子をわたしはたくさん見てきました。
聖木曜日の主の晩餐のミサでは、聖体の制定、司祭職の制定、そして兄弟愛の模範の三つの重要な出来事に光が当てられています。これらすべては、キリストの愛の表れです。イエスはわたしたちへの愛の故に聖体を制定し、愛の故に司祭職を制定し、愛の故に互いに仕え合い、互いに愛し合うという、兄弟愛の模範を残されました。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と福音で読んだとおりです。
イエスはこの後、すぐに逮捕され、弟子たちから離れてしまいます。しかし、愛の経験はいつまでも残ります。愛に基づいた人間関係は、場所も、時も超えて続きます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」という、イエスの普遍的な愛の約束は、特に、御聖体を通して実現します。
弟子たちと過ごす最後の時。十字架上で殺される前の晩。イエスは、お金とか、地位とか、人脈とか、武器とかではなく、わたしたちへの愛の表れとしてのご自分の体、存在を与えられたのです。
それは、決して、弟子たちやわたしたちが、清く、信仰深く、正しく、キリストの体にふさわしいものだからではありません。ただ、イエスが弟子たちを、わたしたちを愛しているからです。愛は、相手に条件をつけず、与えられるものなのです。
ですから、わたしたちがミサに与り、聖体拝領のために並ぶとき、いつも、キリストが、私を愛するが故に、ご自分を捧げてくださったのだということを思い出してください。
御聖体は、イエスが十字架上でご自分をわたしたちの救いのために捧げてくださった、その生け贄のいのちそのものです。わたしたちは、ミサの中でそのイエスの犠牲をいただきますが、ただ受けて終わりなのではなく、それに対して自分自身を神に捧げるよう、招かれています。キリストがわたしたちを愛するが故に、与えてくださったいのちをいただき、そのいのちを生きるということは、自分もまたキリストのためにいのちを生きるということなのです。このことについて、パウロはガラテヤの信徒への手紙(2.20)で次のように書いています。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
さて、聖ヨハネ・パウロ2世は、その回勅「教会にいのちを与える聖体」で次のように述べています(31項)。
聖体が教会生活の中心であり頂点であるならば、それはまた司祭の役務の中心と頂点でもあります。だからこそ、わたしは、主イエス・キリストへの満ちあふれる感謝の心をもって再びいいます。聖体は「司祭職の秘跡のおもな、そして中心的な存在理由です。実際、司祭職は、聖体の制定の瞬間に生まれました」。
「これを、わたしの記念として行いなさい」そう言って、キリストは聖体を制定し、司祭職を制定されました。わたしは、個人的に、その司祭職に招かれた者として、しみじみ、なんと有り難いことだ、と思います。自分が司祭として生きているということについてではありません。キリストが司祭職を制定し、そのために人々を招き、司祭を通してご自分の愛を、恵みを注がれることが、本当に有り難いことだと感じます。昨日の聖香油ミサでもお願いしましたが、皆さん、どうか、司祭のために、司教のために、お祈りください。司祭が、司教が、キリストの愛を自分自身の愛として、神と人々に奉仕できるよう、どうかお祈りください。
最後に、兄弟愛について触れたいと思います。四つの福音書の中で、今日読まれた、ヨハネの福音だけが、キリストが弟子の足を洗う場面を伝えています。そして、その後の説教でイエスは、弟子たちに掟を与えます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15.11)イエスの体をいただき、愛を受けた人は、その愛を神と自分の間だけにとどめておくことはできず、周りの人々と分かち合うのです。
互いに足を洗い合いなさい、とイエスは言われました。イエスの時代と違って、今、わたしたちは人の足を洗うことはありませんが、互いにへりくだり、仕え合い、愛し合うよう、わたしたちは招かれています。どうやってでしょうか?イエスがしたようにです。人々からさげすまれている人の隣人となることによって。貧しい人、病気の人、拠り所の無い人、異邦人、罪人と言われる人たちに寄り添うことによって。相手がいい人であるか、自分に何かをしてくれるかにかかわらず、自分の方から愛することによって、わたしたちは、互いに足を洗い合うことができます。
これから行われる洗足式を通して、イエスがわたしたちを愛し、仕え、模範を見せてくださっていることを、思い起こしましょう。「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」というイエスの言葉を、それぞれ、自分のおかれている場でしっかりと受け止めましょう。