新潟教会で19:00から聖金曜日の主の受難の祭儀が行われました。今日の新潟は少し肌寒い、雨の日となりましたが、かえって落ち着いた、祈りの雰囲気のある祭儀になったと思います。昨日と同じく、主任司祭のラウール神父様、助任司祭の岡神父様との共同司式でした。以下、説教です。
主、イエス・キリストの十字架上の死を記念する、聖金曜日の主の受難の祭儀では、今読まれた受難の朗読、この後行われる盛式共同祈願、十字架の崇敬という三つの特別なシンボルが用いられます。
これらのシンボルそのものが、多くのことをわたしたちに語っています。どうか、十字架の前に自分の心を開き、主の死をしっかりと受け止めてください。そのために、少しだけお話ししたいと思います。
今日、ヨハネによる福音書から、受難の朗読が読まれました。四つの福音の中で、イエスの十字架の元に婦人たちが立っていると伝えているのは、ヨハネの福音だけです。他の三つの福音書では、「遠くから見守っていた」と書いてあります。皆さん、ぜひ今日は、自分もイエスの十字架の元に立っているのだと想像してみてください。十字架の下に立って、苦しむイエスを見上げると、いろいろな思いがわき上がってきます。
受難の朗読からは、エルサレムで人々がイエスに対してどのような態度を取ったのか、様子が伝わってきます。
- 積極的に、どんな手段を使ってでも、イエスを十字架に付ける。排除する、という態度。
- イエスは正しい人だ、と分かっていても、助けず、見て見ぬふりをして、距離を置き、逃げるという態度。
- そして、なにもできないけれども、近くにいて、見守る、という態度。
あなたは、イエスの十字架の元に立って、どのような態度を取りますか?イエスは、人々の救いのために、あなたのために、愛のうちに十字架上で亡くなられました。その思いを、その愛を、自分はきちんと受け止めているでしょうか?ひょっとすると、自分には重すぎる、と感じるかもしれません。
イエスの十字架の元に立つとき、わたしたちは自分の弱さを直視せざるを得ないようなプレッシャーを感じます。イエスは、私の罪のために、私の言葉、行い、怠りのために、ご自分を罪の赦しのあがないとして捧げ、死んでくださったからです。
イエスを見捨てた弟子たちは、なんてことをしてしまったんだ、と苦しんだでしょう。イエスが復活して目の前に現れたとき、弟子たちはきっと合わせる顔がない、と感じたかもしれません。わたしたちは、自分の罪、自分の弱さと向き合うこと無しに、イエスの十字架の元に立つことはできないのです。
しかし、だからこそ、わたしたちはイエスの愛に、自分の罪よりも遙かに大きいイエスの愛に感謝し、回心して愛のうちに生きていくことができるのです。十字架は、キリストが弱いわたしたちを、ありのまま受け止め、愛し、救ってくださることのしるしです。
十字架は同時に、イエスが公生活を通じて大切にされた、弱い立場にいる人たちの側に神がおられることのしるしでもあります。
昨年の受難の主日のミサの説教で教皇フランシスコは、次のように話されました。
人が暴力に頼る時、御父である神のことも、兄弟である他者のことも、何もわからなくなってしまうのです。戦争の狂気がある場所で、イエスはもう一度十字架にかけられます。夫や息子の不条理な死に涙を流す母たちの中で、子どもを抱いて逃げる避難民の中で、取り残された老人の中で、未来のない若者の中で、兄弟殺しのために戦場に送られた兵士の中で、イエスは再び十字架に打ち付けられるのです。
わたしたちの社会の中で、虐げられている人々の中に十字架のイエスがいることを、心に留めましょう。今、ウクライナ、ミャンマーをはじめ、ここ新潟でも、虐げられている人の中にイエスがおられ、ともに苦しんでおられることを思いましょう。すべての人のためにご自分を捧げてくださった、イエスの愛をしっかりと受け止め、一人でも多くの人に伝えていくことができますように。