2023年新潟教会主の降誕夜半のミサ

新潟教区の皆様、主の御降誕、おめでとうございます。今年の新潟教会のクリスマスは、コロナ禍の規制が一段落して初めてのクリスマスとなりました。信徒の皆さんに加え、以前新潟教会に設置されていた幼稚園や保育園の関係者の方々も参加され、聖堂は予備の椅子が出るほど多くの人でいっぱいになりました。聖歌隊にはベトナム出身の信徒も加わり、美しく元気な歌声が響きました。以下は説教です。

皆さんは今年、どのような思いでイエスの誕生をお祝いしていますか?ニュースを見るとうんざりするようなトピックが並びます。戦争、紛争。特にイエスが生まれ、生活した場であるパレスチナとイスラエルの戦争は、ことさらに悲しく、心が痛みます。また、政治家の裏金問題。経済問題。気候変動など、気が滅入ってしまいます。

逆に、町はイルミネーションで、幻想的で美しく飾られています。クリスマスセールで買い物をしたり、忘年会に行ったりして、ニュースに流れてくるようなうんざりする問題や現実を忘れさせるような時期ですね。

今日読まれた福音によると、イエスはローマ皇帝の命令による住民登録を行うためにベツレヘムに旅をしている間に生まれました。ローマ帝国に納める税金を調査するための住民登録です。福音書には「徴税人」が度々登場しますが、ユダヤの人々は神殿に収める10分の1税の他にローマ帝国へ毎年払う税金、通行税などを支払わなければならず、苦しい生活を強いられていました。

ベツレヘムでは、ヨセフと身重のマリアは宿屋に泊まれませんでした。ユダヤの文化では、旅人を大切にするものですが、住民登録のために宿屋がいっぱいだったのかもしれません。

救い主誕生のニュースを一番最初に知らされたのは、羊飼いたちでした。野宿して羊の世話をする人たち。安息日に礼拝にいくこともできません。周りの人からは、汚れた職業の人々と言われていたそうです。

イエスは、そういう社会情勢、人間関係、社会構造の中に生まれてきました。イエスの誕生、神の独り子が人間として生まれてきたという出来事は、何か神秘的な、様々な困難を超越して、問題などものともしない中で生まれてきたのではありません。重い税に苦しみ、人から冷たくあしらわれて心を痛め、宿もなく子どもを出産し、差別されていた人々の訪問を受け、生まれてからは虐殺から逃れるためにエジプトに避難しました。神の独り子は、こうした厳しい現実の中に、無力な赤ん坊として生まれてきたのです。

このことは、気をつけて意識しないと忘れてしまいがちです。わたしたちは毎年救い主の誕生を祝いますが、救い主は政治の腐敗や、経済、社会、環境問題とは別のところ、きらびやかに飾られた町に生まれるのではなく、現実の問題のまっただ中に生まれるのです。悲惨な状況の中に、弱いものとして生まれてきたからこそ、真の救い主なのです。闇が深いほど、輝く光なのです。社会からつまはじきにされた人々をも決して忘れない。どんなに小さく、弱く、苦しい状況にあって全く先が見えなくても、救われる。そういう神の思い、神の愛をはっきりと示して神の独り子は生まれてきたのです。

わたしはクリスマスを迎える準備をしながら、2015年のヨーロッパ難民危機の事を思い出していました。2015年の秋、シリアでの内戦が激しくなり、多くの難民がヨーロッパ諸国へと向かいました。その年の9月、わたしは会議があって、オーストリアのウィーンに行きました。その頃、シリアからの難民の多くは電車に乗ってドイツを目指していましたが、まずウィーン中央駅まで来て、そこで一泊野宿し、次の日の朝早い電車でドイツまで行くという流れになっていました。わたしはウィーン中央駅から歩いて10分のところにある教会を訪問しました。その教会は、毎日60名から70名の、特に状態の悪い、助けが必要な難民の人々を招いて信徒会館で受け入れていたのです。

わたしも、教会のボランティアチームの人たちと一緒に駅に行って、助けが必要な人々に声をかけました。特に目に付いたのは、小さな子どもを連れたお母さんたちです。若い男性は自分の国で戦っています。高齢者は厳しい旅をすることができません。それで、子どもの命を守るため、命からがら逃げていく母親が多いのです。お母さんたちは、小さな子どもを連れ、疲れきってイライラしていました。教会に着くまでの間、人々は厳しい顔をして、じっと黙って歩いていました。わたしは、どう接すればいいのか、どのような言葉をかければいいのか、わかりませんでした。

信徒会館の入り口では、引退した高齢の司祭が難民の人々を待っていました。とても柔らかい笑顔で、「よく来てくださいました」と、一人ひとりを迎えていました。この司祭の笑顔を見た人々の顔は、驚くほどホッとした表情に変わりました。そして、ボランティアの人たちが用意したあたたかい食事を食べ、シャワーを浴びて服を着替え、マットレスに敷かれたきれいなシーツと毛布にくるまって安心して寝るのです。

イエスも、同じようにして生まれてきました。厳しい旅に疲れた両親から、そして何より、人の助けがなければ生きていけない弱い存在として生まれてきたんです。死んでいくときも同じです。全く無力に、十字架の上で死んでいきました。生まれるときも、死ぬときも、力や、権力や、軍隊や、財産はありませんでした。持っていたのは、ただ、愛だけです。何もない、弱い救い主だからこそ、力では打ち負かすことのできない愛の強さが輝くのです。

皆さん、今年のクリスマスにあたり、神の独り子が、わたしたちの毎日の現実の中に、救い主としてともにいてくださることを意識しましょう。また、幼子イエスが示した愛をしっかりと受け止め、力ではなく、愛をもって助け合い、生きていくことを心に留めましょう。

幼子イエスの祝福が皆さんの上に豊かにありますように。