新潟教会で主の晩さんの夕べのミサが司教と田中神父、町田神父の共同司式で夜7時から行われました。このミサとともに、過越の聖なる三日間がはじまります。教会カレンダーの中で最も重要とされるこの三日間は、特別な儀式やシンボル、祈りや歌によって、キリストの死と復活を通して与えられる恵みの豊かさを体験する時です。世界で困難に直面する人々を心に留めて、この時を過ごしたいと思います。
成井大介司教
以下、説教の抜粋です。
第2朗読で読まれたコリントの教会への手紙の中でパウロは、イエスが最後の晩餐で聖体を制定されたときに、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたと伝えています。
福音朗読で読まれたヨハネの福音書では、弟子たちの足を洗ったイエスが、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と言ったと伝えています。
イエスはただこれらのことを弟子たちのためにしただけではなく、弟子たちに命令するのです。「私の記念としてこのように行いなさい」「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」イエスは、弟子たち、私たちに対して、イエスを模範として生きるよう招いているのです。私がするように、あなた方もしなさい。
それは、ただ単にミサを立てる、ミサに参加する、また人のために奉仕するという事では決してありません。
今日の福音の最初に、「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。この言葉は、最後の晩餐でイエスが弟子たちの足を洗った後にイエスが言われた言葉につながっています。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
私が愛したように、あなた方も愛しなさい。
イエスはこの世から父のもとへ移るにあたって、愛故に御聖体を制定し、愛故にへりくだって奉仕し、愛故に十字架上でご自分を捧げたのです。ミサで、キリストの過越を記念するのも、互いに奉仕するのも、キリストが人々を愛したように、行いなさい。イエスはそう、私たちに命じているのです。
これは、簡単なことではありません。
キリストの愛に根ざしてミサに参加し、キリストの愛に根ざして人に奉仕し、奉仕されるというのは、決して人として成熟しているからとか、知識や経験があるからとか、生活に余裕があるからできるというようなことではありません。それは、神を信じているからできるのです。
2週前の日曜日、四旬節第5主日の福音朗読では、姦通の現場で捕らえられた女性のエピソードが読まれました。石打の刑で殺される寸前という、非常に緊迫した場面にあって、この女性は心底動揺し、絶望の中にいたでしょう。
イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言います。このイエスの言葉は、律法学者の罠から逃れようとした言葉でしょうか。それとも、ファリサイ派や、この様子を見ていた人々を回心に招く言葉でしょうか。その後のイエスの言葉を聞けば、その答えは明らかです。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
イエスは、この女性のことを思い、女性のかたわら、つまり、責められる者のかたわらに立ったのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とは、イエスがこの女性の立場、石を投げられる側に立つという意味です。
皆さん、ファリサイ派をはじめ、イエスを除いてすべての人が去った後、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」とイエスに言われたとき、この女性はどんな思いを抱いたでしょう。
「良かった、罪じゃないんだ。」と思うでしょうか。「石を投げられずにすんだ」と思うでしょうか。「解放された」と思うでしょうか。多分、違うでしょう。
「この人は、私の側に立ってくれた。」「この人は律法学者ではなく、私と向き合い、私のために自分を危機にさらしてくれた。」「最後まで残って、一緒にいてくれた」
こんなふうに感じたのではないでしょうか。人は、自分が危機にさらされているとき、無条件で自分の側に立ち、一緒に危険な目に遭ってくれる人に心を動かされます。生き方を変えられるような経験になります。
この出来事は、イエスが掟として与えられた、キリストのように愛するということがどんなことであるか、私たちに教えてくれます。
イエスが弟子の足を洗い、互いの足を洗い合いなさい、と呼びかけたのは、神が、私の、逃れようがない罪、弱さ、私のもっとも汚い部分に触れ、そのまま受け入れ、ともにいてくださるということです。そして、あなたも人に対して同じようにしなさいと言っておられるのです。
キリストが御聖体を制定し、自らの命を十字架上で人々の救いのために捧げるという神秘を残してくださったのは、私たちが清いかどうかに関わらず、理屈無しで私たちの側に立ち、受け入れ、最後までともにいてくださるためです。その、キリストの徹底した愛を、キリストが私のために最後までともにいてくださると言うことを信じてミサに参加しなさいとイエスは言っておられるのです。
このような愛の行いは、姦通の女がそうであったように、ペトロが三度イエスのことを知らないと言ったときのように、自分が危機にさらされているとき、自分がどうしようもなくなってしまったとき、自分の弱さを思い知らされたとき、神が無条件に自分の汚さを受け止め、自分の側に立ち、一緒に危険な目に遭ってくれるのだ!と、心を揺り動かされていなければ、なかなかできるようなことではありません。
聖週間の典礼、足を洗う式や、十字架の礼拝、光の祭儀などは、まさに、イエスが差し出した愛を、私たちがしっかりと受け止めるために、見える形で、体験的に感じるためのものです。これから行われる洗足式、自分の一番汚い部分にイエスが触れてくださるという思いで、今にも石打の刑で殺されようとしている自分の傍らに、イエスがともに立ってくださっているという思いで、参加いたしましょう。