新潟教会にて聖金曜日主の受難の典礼が行われました。新潟市はとても暖かく、天気に恵まれた聖金曜日となりました。以下、説教の抜粋です。
イエスは、十字架を担ぎ、ゴルゴタの丘に向かって歩き、そこで十字架に付けられました。多くの人がイエスを眺めました。その様子を見て、ともにいた人々は、イエスを嘲ったか、遠巻きに眺めて無関心でいたか、噂のイエスがどうなるか見てやろうとついていったか、またはピラトのように手を洗って自分には責任がないと言い聞かせたか、様々だったと思います。
その中には、キレネのシモンのように十字架を肩代わりした人も、ただ沈黙のうちに十字架上の息子を見上げた母マリアもいました。イエスに従った多くの婦人たちも遠くから見守っていました。一緒に十字架に付けられ、呪いの言葉を発する犯罪人も、イエスに覚えていてほしいと言葉をかけた犯罪人もいました。イエスを見捨てた弟子たちも、ひょっとしたら遠くから見ていたかもしれません。
私たちはこの後盛式共同祈願を行い、続いて十字架の前に行列を作り、十字架の崇敬を行います。十字架に向かって歩くとき、十字架の前に立つとき、皆さんは何を感じ、何を考えますか。わたしは今日、三つのことについて考えるよう、皆さんに呼びかけたいと思います。
まず一つは、イエスの苦しみについてです。
むち打ち、そして十字架刑という、肉体的な苦しみの極限にイエスはいました。
つい数日前、歓喜のうちに自分を迎えた人々の嘲りや罵り、冷ややかな視線。ゲッセマネの園でのもだえるような祈り、弟子たちに見捨てられたこと、母の目の前で死んでいくということなどの、精神的苦しさ。
そして、父である神に信頼しながらも、人としての弱さをすべてその身にまとい、生きた事による、霊的な苦しさ。
これらすべての苦しみは、すべての人、例外なくすべての人に向けられた愛故の苦しみでした。わたしたちは、十字架の前に立つとき、キリストの愛がいかに大きいものであるか、死もその愛に打ち勝つことはできないということを実感するのです。
次に、今、世界で苦しんでいる人々のことについてです。
キリスト教文化が根付いた国では、町を行列して十字架の道行きを行うことがよくあります。第1留の「イエス、死刑を宣告される」で、死刑囚のために、また死刑廃絶のために祈ったり、第4留の「イエス、母マリアに出会う」で、困難な状況に置かれたお母さんたちを想い起こしたりと、その地域、または世界で苦しむ人のために祈たりします。
イエスは、特に、苦しむ人とともにいます。ウクライナ、ミャンマー、パレスチナ、スーダン、その他多くの紛争地帯で困難にある人とともにイエスはおられます。特に今日、聖金曜日は、カトリック教会全体として、「聖地のための献金」の日と定められており、聖地で苦しむ人々を心に留め、祈り、献金したいと思います。パレスチナでは毎日、今日も、無辜の市民が家から追い出され、爆撃によって傷つき、殺され、避難先の学校や収容された病院も爆撃されています。傷つき、打ちのめされた人々、子どもの食料を何とか手に入れようとする親、人質の無事を祈る人々、何世代にもわたる尊厳の蹂躙の中に、キリストがともにおられます。
十字架の下に立つということは、今苦しんでいる人々とともにおられるキリストをとおして、自分もともにいる。祈り、ともに歩むということです。
最後に、自分自身の苦しみについてです。
ペトロがイエスのことを3度知らないと言い、自分の弱さに、その罪深さに苦しんだように、私たちは十字架の下に立つとき、自分の過ち、自分の弱さに苦しみます。たとえ目を塞ぎ、見て見ぬふりをしても、自分の弱さは自分を苦しめます。
わたしは、十字架の下に立つとき、心の安らぎを得ます。イエスは、自分を、弱さを含めて、すべてそのまま受け止めてくださる。今、わたしの弱さを、苦しみを、ともに背負ってくださる。十字架はその証しだからです。
ところで、教皇フランシスコは、昨年の10月にイエスの聖心についての回勅を発表しました。まだ日本語訳はできていないのですが、その中で次のようなことを語っておられます。
キリストは十字架の死によって人々の罪をあがなってくださいましたが、人々の罪とは、その時代の人々、その時代より以前の人々だけでなく、私たちを含む、未来の人々の罪のためにもご自身を十字架上で捧げてくださいました。だからこそ私たちは、心を痛め、同時に感謝するわけですが、イエスのあがないが未来の私たちに届くように、私たちの今の心の動き、回心や、償い、感謝の気持ちも時空を超えて十字架上で苦しむイエスの聖心に届くのです。
イエスのあがないは、一方通行ではないんですね。イエスと、私たちの間で交わされる、愛の交わりなのです。
キリストの十字架は、すべての苦しみを受け止め、希望を生み出します。教皇フランシスコは、今年の聖年を公布する大勅書「希望は欺かない」で次のように述べています。
「希望はまさしく愛から生まれ、十字架上で刺し貫かれたイエスのみ心からわき出る愛がその根本です。」
今日、私たちは、十字架の前で行列し、十字架の下で祈るとき、イエスの苦しみ、人々の苦しみ、自分自身の苦しみに心を留めましょう。そして、キリストが十字架上で示された愛をしっかりと受け止め、希望を持って歩んでいきましょう。