皆さん、主の御復活おめでとうございます。新潟県の下越地区、中越地区では昨年すべての教会で司祭の異動が行われたため、多くの司祭にとって異動後初めての御復活となりました。新しい派遣先で、新しい共同体と祝う御復活。きっと司祭にとっても、共同体全体にとっても心に残る御復活となったと思います。
今年の新潟教会の復活徹夜祭は、主任司祭の田中神父、協力司祭の町田神父、司教の3人の共同司式で行われました。式の中では2名の方々が洗礼を受けられました。心から、おめでとうございます。これからの信仰生活が、共同体とともに、恵みに満たされたものとなりますようお祈りいたします。以下、御復活メッセージと説教です。
成井大介司教












慌ただしく、また不安定な社会情勢の中に生きる私たちですが、今日は少し立ち止まり、イエスの死と復活という大きな恵み、驚き、喜びをしっかりと受け止め、記念したいと思います。
最初に少し、沈黙のうちに先程自分の手の中で輝いていたろうそくの光のことを思い出したいと思います。
今日の典礼の最初の聖書朗読は創世記から読まれました。天地創造の一番初めは「光あれ」でした。
それから、いくつかの朗読、例えば出エジプト記でイスラエルの人々がエジプトから逃げているとき、イスラエルの部隊とエジプトの部隊の間で光が闇夜を貫いたとあります。
そして、福音朗読では週の初めの日の明け方早く、婦人たちは墓に行ったとあります。日の出の時です。
私たちの手の中で輝く光は、この世界が造られたとき、神が人々を困難なときに導き、守ったとき、死の闇が復活のいのちによって打ち破られたときの光を象徴しています。そのすべてが、神が私たちをこよなく愛し、大切にしておられることの印です。その光は、私たちの手にあります。神の愛は、復活のいのちは、私たちの中に、日常に、息づいているのです。
イエスの復活は、この世界に生きるすべての人にたくさんの影響を与えてきました。その中心的なことを、三つ取り上げてみたいと思います。
まず、イエスが宣教活動を通して人々に語り、行った数々のこと、すなわち父である神がイエスとともにおられ、神の国の到来を告げ、罪人とまわりからさげすまれる人々を神がいつくしみのうちに迎え、すべての人を愛しておられるということが、イエスの復活によってこれ以上ないほど明らかになったということです。イエスが人々に告げ知らせた福音の完成です。
次に、イエスを通して働かれる父である神の愛の前には、死も打ち負かされることが示されました。そして、イエスが十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目に死者のうちから復活したことにより、死者となったすべての人々を、神のいのちにあずかることができるよう、招いてくださったということです。
最後に、復活したイエスが弟子たちに現れ、「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタイ28.20)と言われたように、復活のイエスはいつ、どこに私たちがいても、ともにいてくださるということです。
ところで、私たちがいただいているいのちは、一人だけで生きることができるようにできていません。生まれたとき、つきっきりで世話をしてくれる人がいなければ死んでしまいます。大人になって、どれだけ知識、知恵、力を身につけても、自分を大切にしてくれる人がいなければ生きることが困難になります。そして、この世界のすべて、神が造られたものすべてとつながっていて、互いを必要としています。復活のいのち、神のいのちにあずかるというのは、他の人を誰も必要とせず、この世界のすべても必要ではなく、ただ自分と神様だけの関係に入るというようなことでは決してありません。
キリストは、すべての人を救いに招きました。キリストがぶどうの木で、人々がその枝と教えられているように、神のいのちに生きるということは、すべての人とともに生きるということなのです。
カトリック教会は、ここ数年シノドスの旅を通じて、ともに歩む教会であろうと努力してきました。今日、この復活徹夜祭には、きっと普段なかなか教会に来ることができない人が参加しておられると思います。そして、何とか参加したかったけど、できなかったと残念に思っておられる方がもっとたくさんおられると思います。言葉があまりわからないけれども、せめて復活祭だけは参加したいと願って、一緒に祈っている方も多いと思います。みなさん、今日、こうしてともに御復活を祝うことができるのは、素晴らしいことです。来ることができなかった方、離れていても、心を合わせて祈れるのは、素晴らしいことです。わたしたちは、皆、復活したキリストによって、つながっています。私たちは、キリストとつながる、一つの体です。私たちと、あなたたちではなくて、みんなで私たちです。今日、改めて、神のいのちにともに生かされる恵みを感謝したいと思います。
さて、今日読まれた福音朗読の中で、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」というくだりがあります。皆さんは、どこにイエスを探しますか。祈りの最中でしょうか。それとも自分が死んだ後、会うことができると考えるでしょうか。
使徒たちにとって、イエスの死は絶望的な出来事でした。イエスとともに旅をして、確信した、この人こそが自分たちを導いてくれる方だという思い、希望がすべて打ち砕かれ、全くの暗やみに閉じ込められたような状況でした。
そこに、この、空になった墓という出来事と、イエスが目の前に現れて話したり、食事したり、旅をしたりという出来事がおこるわけです。そのような出来事を通して、弟子たちは思い知らされるのです。
自分たちは、墓の中に、絶望の中にイエスがいると思っていたが、違った。イエスは、墓の中にも、絶望の中にもいなかった。逆に、絶望の中にいたのは自分たちだった。
どんなに自分が絶望と暗闇の中にいても、イエスはそこにおられる。当たり前の日常の中に、人との会話や、食事、旅路の間に、イエスは生きて、ともにおられるのだ。イエスは、暗やみに輝く光であり、絶望のどん底の希望なのだ、死の淵に沈んでも、絶えることのない命なのだ、ということを確信したのです。
今、私たちは非常に厳しい社会に生きています。世界は、人間の尊厳や、国の主権の尊重といった、人類が歴史の歩みの中で築き上げてきた価値や原則を、まったく無視しているかのような状況です。「御復活おめでとうございます」と言うのがためらわれるほどです。
しかし神は、こうした問題のある世界の中に働かれます。イエスは、なにか天国のような素晴らしい世界に復活されたのではなく、イエスが殺されたときと同じ、問題だらけの世界に復活されました。そして、その手と足、脇腹には傷がついたままでした。イエスは、弟子たちに現れ、話をしたり、旅をしたり、食事をしたりしました。
このことは、イエスが日常のどこにでもともにおられること、特に困難の中にあって私たちとともにおられること、そして、イエスを救い主と信じるものが、弟子たちのように、困難な社会の中で希望の光となって歩んでいくよう招くものです。今日、私たちは、キリストの復活によって示された神の愛を生活の中でともに証していくことができるよう、神の恵みを願いたいと思います。
最後に、これから洗礼を受けられる皆さん、先程読まれたパウロのローマの信徒への手紙には、次のように書かれています。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
このように、あなたは洗礼によって、キリストの死と復活によってもたらされた、新しいいのちを生きるものとなります。洗礼によってキリストをとおしてつながる多くの々とともに、神の愛を生きていきましょう。