聖香油のミサ

新潟教会で聖香油のミサが10:00より行われました。ここのところ、新潟教区では新型コロナ感染症の感染拡大が続いており、特に新潟、秋田県では過去最高の感染者数を記録しています。こうした事情もあって、秋田県からはこの春に赴任した傍島義雄助祭が、山形県からはマルティヌス・パリヤント神父と楊成源神父が地区代表として参加、新潟県からは司祭全員が参加し、助祭2名、司祭16名と司教の共同司式となりました。

説教では、司祭職を与えられていることについて、神と、司祭団と、信徒の皆さんに感謝した後、「ともに歩む」シノドスの旅における司祭の生き方について考えました。

シノドスのロゴを見ると、そこには15人の様々な世代、役割、性別の人たちがいて、みな同じ方向を向いて、ともに歩んでいます。ともに出かけています。そして、先頭に立っているのは子どもたちで、司祭団を代表する司教は後ろから4番目です。誰が先か、誰が道案内するか、誰が上か、あまり関係ないように見えます。皆、神に向かって歩き続けいて、聖霊の風が吹いています。

人々の中で、司祭は特に、キリストの生き方を自分の生き方とすることが大切でしょう。聖パウロはガラテヤの信徒への手紙で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きているのです」(ガラテヤ2・20)と書いていますが、まさに司祭は、自分のためではなく、自分の願いではなく、キリストに自分を明け渡して、キリストに自分を通して働いていただくように生きるのです。

キリストは、弟子たちとともに旅をしました。人々と出会い、とどまり、また出かけました。その過程で様々な奇跡を通して神のあわれみが示されます。それと同時に、とても人間的な言葉や行いでも、神のあわれみが示されます。子どもたちを自分の元に来させたり、徴税人と食事をしたり、異邦人の女性に井戸水を分けてもらったりと、様々な出会いを通して、神のあわれみが示されます。復活してからの、エマオに向かってともに歩み、語り、食べる、というイエスの姿は、神が今、どのようにわたしたちとともにいてくださるのかをとてもよく示していると思います。こうした出来事はどれも、イエス一人では示すことのできない神の愛です。人々とともにいたからこそ示された神の愛です。

司祭も、このようなキリストの生き方を深め、人々と共に歩む中で、キリストが働いてくださるのではないでしょうか。そのためには、神の前に、人々の前に謙虚であることが大切でしょう。福音で宗教的な指導者が度々イエスから批判され、むしろこども、羊飼い、徴税人、罪人と見なされていた人たちを通して神が働かれたように、司祭は常に、謙虚に人々から学ぶ姿勢を忘れてはならないと思います。この後わたしたちは司祭としての約束を更新しますが、初心に返って、改めてキリストに自分を明け渡し、キリストと人々とともに歩んでいく決意を新たにしたいと思います。

成井大介司教