本日、新潟教区として、名誉教皇ベネディクト16世の追悼ミサが新潟教会にて行いました。長年にわたり牧者として教会を導いてくださったことに感謝し、永遠の安息を祈りました。以下、説教です。
名誉教皇ベネディクト16世は、2022年12月31日、日本時間の17時34分に、この世での旅路を終え、神のもとへと旅立たれました。本名ヨゼフ・ラッツィンガー、後のベネディクト16世は、1927年4月16日 ドイツ・バイエルンのマルクトル・アム・インの、素朴で、信仰深い家庭に生れました。1939年、12歳で小神学校に入りますが、その頃すでにナチズムが影響力を強めており、まもなく小神学生たちはヒトラー青少年団に入ることを強要されるようになりました。幸いなことに、ラッツィンガーはヒトラー青少年団の活動に参加することは免れたそうです。第2次世界大戦が始まると、16歳で防空部隊に入れられましたが、同時に神学の勉強も続けました。1944年の9月にヨゼフ・ラッツィンガーはオーストリア、スロバキア、ハンガリーとの国境近くに送られ、労働奉仕を行いますが、そこで病気になります。結局彼は故郷に帰るのですが、そこでアメリカ軍に捕らえられ、非常に厳しい環境の収容所に入れられます。最終的にヨゼフ・ラッツィンガーは1945年の6月に自由の身となって故郷に帰り、神学の勉強を続け、1951年に司祭に叙階されました。
ベネディクト16世は、その2006年に書いた霊的遺言の中で次のように述べています。
神は、わたしに命を与え、様々な混乱の中でわたしを導き、わたしが滑り落ちそうになるといつもわたしを立ち上がらせ、み顔の光でわたしを再び照らしてくださいました。
今にして思えば、歩んで来たこの旅路において、暗くて疲れ果ててしまいそうになった道の部分も、すべてはわたしの救いのためであり、そのような時にこそ、主はわたしを正しく導いてくださったのだと理解できます。次いで、困難な時代にわたしに命を与え、大きな犠牲を払いながらも、愛情を持ってわたしのためにすばらしい家を用意してくれた両親に感謝します。今も、それは明るい光のように、今までの人生のすべての日々を照らしています。
ベネディクト16世は、優れた神学者として活躍された方です。教理省長官の時代に取り組んだ新しいカテキズムの編集や、教皇として出した様々な文書は、とても明確で、はっきりとした方向性を持ち、かつ示唆に富んだ内容で、わたしたちに信仰の道を示してくれるものです。しかし、その神学的な知識や理解の深さの根っこには、信仰深く、愛に満ちた家庭で多感な少年時代を過ごした事、そこで培われた、素朴で強い信仰と愛を持って、戦争という困難な時を生きたという、とても人間らしい心があるのではないかと私は感じています。
ところで、司教が任命を告げられて、一番最初にすることは、モットーを決めることです。そのモットーに、自分が司教としてどのように生きていきたいか、思いが込められています。教皇になって一番最初にすることは、名前を決めることです。きっと、司教がモットーを決めるように、新しく選ばれた教皇も、その名前に自分の教皇としての生き方の思いを込めるのだと思います。
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は2005年に78歳で第265代教皇に選出され、教皇としてベネディクトという名を選びました。このことについて名誉教皇は、最初の一般謁見で次のように述べています。
わたしがベネディクト16世と名乗ることを望んだのは、敬愛すべきベネディクト15世と結ばれることを理想と考えたからです。ベネディクト15世は、第1次世界大戦による困難な時代に教会を導きました。…彼は大きな勇気をもって、戦争の悲劇を回避するために、また戦争の惨禍を少なくするために尽力しました。ベネディクト15世の足跡に従って、わたしは諸民族と諸国家間の和解と調和への奉仕のために、わたしの奉仕職をささげたいと望みます。平和という偉大な善は、何よりもまず神のたまものだと、わたしは心から信じています。この壊れやすい、貴重なたまものを、日々、すべての人が力を合わせて、祈り求め、守り、築いていかなければなりません。」
「さらにベネディクトという名前は、偉大な「西方修道制の父」である、ヌルシアの聖ベネディクトという特別な人物にちなんでいます。…わたしたちは、この西方修道制の父が、その『戒律』の中で自分の会の修道士に残した勧告を知っています。「キリストより何ものをも絶対に優先させない」(『戒律』第72章11。第4章21参照)。ペトロの後継者としてのわたしの奉仕を開始するにあたって、わたしは、わたしたちの存在においていつもキリストを中心とすることができるように、聖ベネディクトの助けを祈りたいと思います。わたしたちの思いとすべての行いにおいて、キリストがいつも第一の場を占めますように。
教皇在任中のベネディクト16世の牧者としての働きは、まさに、何よりもキリストを中心に置くこと。そして、キリストによる世界と教会の和解と調和のためのものだったと言えるでしょう。教理省長官時代、ラッツィンガー枢機卿は保守的で、あまり、開かれた人というイメージを持たれることは無かったかもしれません。しかし教皇として、ベネディクト16世は、他宗教、多文化、また、教会の中における分裂の間に立ち、開かれた態度で忍耐強く対話を進められました。
私は、ベネディクト16世に一度だけお目にかかったことがあります。2012年、ローマ近郊の町、ネミで開かれた神言会の総会議に来てくださったのです。今はそれほど珍しくありませんが、当時、修道会の総会議に教皇が出向いて来てくださると言うのはほとんど無かったと聞いています。それでも来てくださったのは、教皇が第2バチカン公会議にひとりの司祭として参加していたとき、まさに2012年に神言会の総会議が行われていたネミの研修施設で、教会の宣教活動に関する教令の草案作りをしておられたからです。ベネディクト16世は、当時のことをとてもよく覚えています。ここにくることができてうれしい、と言われ、思い出を語られました。とても穏やかに、台本無しで、うれしそうに語られる教皇の姿が目に焼き付いています。ベネディクト16世は、第2バチカン公会議に参加したひとりの神学者として、教理省長官として、そして教皇として教会の激動の時代に大切な役割を果たしてこられました。第2バチカン公会議の精神を、分裂ではなく、調和によって実現していくために、教皇としてどれほど祈り、訪問し、対話を続けてこられたことでしょうか。神が豊かに報いてくださるよう祈りたいと思います。
ベネディクト16世が教皇に就任した年のクリスマスに署名した最初の回勅、「神は愛」は、こうした教皇の取り組みがどのような理解の元に行われているのか、またわたしたちが教会として何を大切にして歩みを進めていくのかを、「神の愛」をテーマに教えています。引用します。
キリスト教の愛の活動は、世界をイデオロギーによって変革するための手段でもなければ、現世的な戦略に奉仕するものでもありません。それは、人間がつねに必要としている愛を、今ここに存在させるための手段なのです。(31)
わたしたちは今、互いに距離を置き、自分と合わない人々を敵と見なし、暴力によって相手を威嚇し、均衡を保とうとする世界に生きています。そのような中、ベネディクト16世のこの言葉は、どちらの陣営か、敵か味方か、ではなく、ただひたすら、神がすべての人を例外なく愛していることを、私の日常生活を通して現すよう招いています。
神の愛を、今、ここに、存在させる生き方を教えたベネディクト16世の最後の言葉は、イタリア語で、“Signore ti amo!”。「主よ、あなたを愛します」でした。牧者として、ひとりのキリスト者として、最後まで愛を示してくださいました。わたしたちも、ベネディクト16世の思いを受け継ぎ、それぞれの立場、それぞれの生活の場で愛のわざを実行していきたいと思います。
最後に、ベネディクト16世が教皇職を開始したミサの説教の一節を紹介します。
羊の世話をするとは、愛することです。愛するとは、苦しむ覚悟があるということです。愛するとは、羊たちに真の善を、神の真理、神の御言葉という糧を、神の現存という栄養を与えることです(2005年4月24日 ベネディクト16世 教皇職開始ミサ説教)。