新潟教区では、例年水曜日に聖香油ミサが行われます。今年は天気にも恵まれ、五つの地区すべてから多くの司祭が参加することができました。ミサの最後に、参加できなかった方も含めて、新潟教区で働くすべての司祭を紹介し、感謝の言葉を述べさせていただきました。ともに福音宣教に取り組む恵みに感謝いたします。また、信徒の皆様には、司祭と司教のために祈ってくださることに感謝し、司祭の日にあたり改めてお祈りをお願いいたしました。恵み深い一日に感謝。以下、説教の要約です。
教皇ベネディクト16世は、2009年のイエスの聖心の祝日からの一年間を「司祭年」と定め、これを世界で祝いました。この司祭年の開催を告げる手紙の中で、ベネディクト16世は、「司祭の召命は、キリストの友となる召命」だと書いています。
実は教皇ベネディクト16世は、その2年後の2011年の6月29日、聖ペトロとパウロの祭日のミサの説教で、自分自身の司祭叙階60周年にあたり、次のような話をしました(要約)。
わたしは、司祭に叙階された時から、「私はあなたを僕とは呼ばない、友と呼ぶ」という言葉が、ただの聖書の言葉ではなく、主がわたしにとても親密に語りかける言葉だと悟ったのです。友だからこそ、主はわたしに、最後の晩餐で言われた言葉を言うように求め、友だからこそ、主の名において罪を許す権限を与えるのです。友だからこそ、主が味わった喜びも、苦しみも、感じるようになるのです。
キリストは、わたしたちを僕ではなく、友として招いてくださいました。もちろん、わたしたち司祭はキリストに仕える者ですし、対等な者であれるわけがありません。でも、キリストはご自分を低くし、わたしたちと同じ者になり、さらに、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しにな」ったのです。わたしたちはそれでも謙遜して、または自分を卑下して、自分はふさわしくない、と言いますが、そんなわたしたちをキリストは司祭として、特別な友として選ばれ、招かれたのです。今日、聖香油ミサを行うにあたり、キリストの友である司祭として、自分自身の召命をふり返ってみてはいかがでしょうか。
ところで、以前カトリック教会には、ミサの前に司祭が祭服を着るときのための祈りがあったのだそうです。おそらく先輩司祭の皆様はご存じだと思いますが、私は今日のミサの準備をしているときに、本を読んでいてはじめて知りました。
ミサの前、まず最初、香部屋で手を洗う時の祈りを唱えます。それから、アミクトゥスをつける時の祈り。アルバを着る時の祈り。チングルムをつける時の祈り。ストラをかける時の祈り。最後に、カズラを着る時の祈りです。この、カズラを着る時の祈りは、次のようなものです(英語版からの試訳)。
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いと言われた主よ、あなたの軛を受けることによって、あなたの恵みをいただくことができますように。」
くびき、という道具は、牛などを複数つないで、畑を耕したりするためのものです。くびきの形が牛の肩の部分にしっかりと合っていれば、牛はより楽に、より重いものを引いていくことができる。そして、隣の牛としっかり歩みを合わせることができる。
司祭が、キリストの友として、キリストのように生きていくというのは、言ってみれば、神がしっかりと私の体に合わせて作ってくださった軛があって、その軛の片方はイエスご自身が負っていて、ともに、一歩一歩、歩みを合わせて進んでいく、そんなものなのではないでしょうか。カズラを着るというのは、キリストと一緒に軛を負うということ。弱い私には背負いきれない重荷を、キリストがともに背負ってくれるということ。キリストの言葉を聞き、キリストと食卓を囲むということ。まさに、キリストの友としての司祭の生き方を表すものなのだと思います。
司祭は、叙階の時に聖香油を手に受けます。油は、神の恵みを現すものです。その、油を塗られた手で、司祭は洗礼のために油を塗り、病者の癒やしと慰め、罪の赦しのために油を塗ります。こうして、神の恵みが広がっていきます。
司祭は、多くの手を見ます。御聖体を配るとき、病者の油を塗るとき、司祭は手を見ます。硬い手。柔らかい手。大きな手。小さな手。ペンだこ。あかぎれ。しわ。いろんな手がありますよね。いつも思うのですが、手は、その人の人生を語るように思います。司祭の手も、説教の言葉と同じように、いや、ひょっとすると、説教よりもさらに多くのことを語っていると思います。司祭が手を合わせて祈る姿。カリスとパテナを上げる姿。御聖体を配る姿。手を上げて祝福する姿。洗礼や病者の塗油で油を塗る手。もっと言うと、信徒に手紙を書いたり、様々な仕事をする、その姿が、皆さんを司祭として招いた方の手、友であるイエスの手を思わせる手であるように。貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人に救いを告げ知らせた、イエスの姿を思わせるようなものであるように、わたしたち司祭は招かれているのだと思います。
最後に、キリストが弟子たちとともに歩んだように、司祭もまた信徒とともに歩み、共同体を作るよう求められています。シノドスの旅を続ける中で、わたしたちはこのことについて深く考え、分かち合ってきました。日本の司教団が最近出した、「「大陸ステージのための作業文書」についてのレポート」には、次のように書かれています。「(シノドス的な教会であるためには)共同責任と共同識別は欠かせないという意見が寄せられました。一緒に考え、一緒に責任を果たしていく教会共同体のあり方は必要なものです。しかし、実際には、例えば意思伝達の方法などを取り上げても、教区から小教区へ、司祭から信徒へといったように一方通行なものが多すぎるとの指摘がありました。相互に意見を伝えられる、いわばキャッチボールするような循環型(cycle)の組織へと変わる必要があるとの主張もありました。」
すべての信者がキリストの王的、預言者的祭司職にあずかっているのですから、司祭は信徒とともに祭司職に取り組むよう招かれています。司祭による一方的な決定と伝達、逆に、司祭無しで、信徒のみで構成する教会共同体は、どちらもキリストの体である共同体として不完全です。ともに歩む共同体であるために、同じ洗礼に与った者として、互いに耳を傾け合い、進んでいきたいと思います。司祭の約束の更新を通して、キリストの友としてともに歩んでいく決意を新たにしたいと思います。