聖香油ミサ

本日、新潟教会にて聖香油ミサが行われ、17名の司祭が共同司式しました。新潟教区は縦に長く、また交通の便が良くないため、聖木曜日ではなく、受難の水曜日に聖香油ミサを行っています。聖香油ミサでは、典礼に用いられる油を祝福、聖別し、また司祭は自分が叙階された時のことを思い起こし、約束を更新します。司祭団としてともに福音の道を歩む恵みに感謝。ともに歩み、支えてくださる信徒の皆様に感謝です。以下、説教の抜き書きです。

イエスは、故郷のナザレの会堂で、顔見知りの近所の人々に囲まれて、イザヤ書を読みました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」
ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で誘惑を受け、ガリラヤで宣教を始めたときのことです。このタイミング、この場所のことを考えれば、イエスはこのイザヤ書の言葉を自分自身の使命として受け取ったと考えていいでしょう。そして、まさにイエスは、この言葉通りの活動を行っています。
多くの貧しい人々、捕らわれている人々、目の見えない人々、圧迫されている人々に出会い、あるときは病気を癒やし、あるときは悪霊を追い出し、あるときは食事を与え、また差別されている人と食事をともにしました。それはすべて、何かを癒やしたり、与えたりするというよりは、神がこうした人々を確かに、特に愛しているのだ、ということの証しでした。「そのために油を注がれた」という意識がイエスの中にいつもあったのだと思います。

皆さん、自分が油を注がれたときのことを覚えていますか?洗礼志願式、洗礼、堅信、叙階の時、病気の時皆さんに油が注がれたときのことを覚えていますか?すべて、自分の人生の一大事の時のことです。その、人生の一大事の時、イエスがご自分の使命として受けたイザヤの言葉が、皆さんの中で実現していたのです。あなたに油を注ぐため、わたしは遣わされた!そして、そのイエスの思いが、司教や司祭を通して、塗油という形で伝えられるのです。

2019年の教皇フランシスコの聖香油ミサの説教が講話集に載っています。わたしはこの説教がとても好きで、何度も読み返しています。教皇は、イザヤの預言に出てくる貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人は、特別イエスに近い人々だと教えます。財産のすべてを献金箱に入れた貧しいやもめ。目が見えるようになって、イエスに従ったバルティマイ、半殺しの目に遭い、サマリア人に助けてもらったユダヤ人。こうした人のことや、たとえ話を読むと、イエスが特別これらの人々を心をかけ、油を注いでいたことに気づかされます。

教皇は言います。イザヤの預言に出てくる人々は、聖霊による司祭への油の注ぎを完全なものに、具体的なものにしてくれる。わたしたちの福音的模範は、イザヤの預言に出てくるような人たちだと。
わたしたち司祭は主の前にあって貧しい者であり、だからこそ物乞いをする人の手に触れて、貧しい心を持っていたい。わたしたち司祭はバルティマイのように、毎朝目覚めては「主よ、目が見えるようになりたいのです」と祈り求めたい。わたしたち司祭も、何かしら過ちを犯しており、よいサマリア人のあわれみ深い手で介抱しほしい。
イエスご自身がこうした貧しい人々と交わり、わたしたちに模範を示してくださったのです。

教皇は、堅信式や叙階式の時に油を注ぐとき、自分自身への塗油が新たにされると感じると言っています。わたしたち司祭は、ただ油を分配するのではなく、自分自身を与えるのです。自分が召されたものを、自分の心を分け与えるように、油を注がれているのです。そう話しています。イエスはまさに、そのようにして自分自身を人々のための捧げました。

兄弟の司祭の皆さん、人に対して油を注ぐことなしに、油を注がれたものがその使命を果たすことはできません。人に対して自分を与えることなしに、神から与えられた使命を果たすことはできません。皆さんの派遣されている場で、イザヤの預言に出てくる人々は誰ですか?貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人、こうした、特別イエスの近くにいる人々は誰ですか?今日、自分に与えられた司祭職についてふり返る日に当たり、ぜひ自分の周りにいる、具体的な人々との関係の中に神が働かれていることを思い起こしましょう。

わたしたち司祭が人々に出会い、イエスがされたように使命を果たしていくとき、わたしたちは決して一人でそれを行うことはできません。イエスですら、いや、イエスはあえて一人で宣教活動をせず、弟子たちとともに旅をして回りました。それも、裏切られ、見捨てられるまでともに行動しました。ゲッセマネの園では、「わたしは死ぬばかりに悲しい。心離れず、わたしとともに目を覚ましていなさい」と弟子たちに願います。神の独り子が、わざわざ弟子たち、それも漁師や徴税人をしていた弟子たちとともに歩んだのは、一人では神の愛を表すことができないからでしょう。知恵あるもの、賢いものの言葉ではなく、幼子のような無邪気な神への信頼を持ってこそ、神の愛を表すことができるからでしょう。

わたしは、新潟教区の司祭団が、イエスを頭とし、司教と司祭がともに、兄弟として、信頼と協力のうちにともに歩んでいけたらと願っています。信頼というのは、何らかの役割や仕事を行う能力がある、という信頼ではありません。一人一人が、司祭団のメンバーとして神から招かれ、油を注がれてともに歩んでいるのだということへの信頼です。
シノドスの大陸ステージのための作業文書の中で、司祭について多くのことが書かれています。ところが、作業文書は「おそらく報告書の中でもっとも⽬⽴たない声の⼀つは、司祭と司教たちの声」だと言っています。教会の中で、司祭団の中で、⽿を傾けられていない。⽀えられていない。評価されていない。そう感じている司祭が多いにもかかわらず、そうした声が聞こえてくることが少ない。そう言っています。
どうか、わたしたちが互いに耳を傾け、一人一人を通して働かれる聖霊の働きを尊重し、幼子のような心で弟子たちのようにともに歩む、貧しい司祭団でありますように願っています。

そして、シノダリティの精神に基づいた、新潟教区の宣教司牧方針にあるように、司祭団が信徒の方々、地域の方々と、ともに識別し、ともに宣教司牧の責任を果たしていけますように。

最後に、宣教司牧方針の最後のページに載っている、祈りを唱えます。
すべてのものを造り、救いに招かれる神よ、いのちの賜物に感謝して祈ります。
秋田、山形、新潟で様々な背景をもって生きるわたしたちを、あなたの愛のうちに一致させてください。あなたの福音を受けたわたしたちが、ともに交わり、ともに宣教し、ともに参加する共同体としてあなたを賛美し、被造物との調和のうちに、人々のあいだであなたの愛をあかししていくことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。