2024年 新潟教会主の降誕夜半のミサ

主の御降誕おめでとうございます。今年の新潟教会のクリスマスは、有り難いことに雪はなく、多くの信徒と近隣の方々が集まりました。夜8時から行われた主の降誕夜半のミサは、わたしと町田神父様の共同司式(主任司祭の田中神父様は佐渡教会のミサ担当)で、御独り子の降誕を祝い、また世界の平和のためにともに祈りました。以下、説教です。

第一朗読では、旧約聖書からイザヤの預言が読まれました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た。」当時、イスラエルの北半分はアッシリアに支配され、人々は絶望の暗闇の中にいました。しかし、希望がまったく見えないようなときにあって、預言者イザヤは「ひとりの男の子が与えられる」と預言します。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」。キリスト教ではこの男の子をイエスの誕生に関連付けて解釈しています。

イエスが生まれた頃、ユダヤの地はローマ帝国によって支配されていました。人々は、イザヤが預言した救い主の到来を待ち望んでいたでしょう。偉大な王が現れて、わたしたちをローマ帝国から解放してほしい。そう願っていたでしょう。イエスはそんなときに生まれたのです。

ところが、先程読まれた福音朗読にあったように、イエスは宮殿や城のような家ではなく、町の大工の夫婦が、住民登録のために旅をしている途中、宿を借りることもできずに家畜小屋で生まれました。

マタイの福音によると、生まれてからは、東方から来た占星術の学者たちに、ユダヤの王として生まれた子はどこにいるのかと尋ねられ、自分の王座を心配したヘロデが地域の幼子を皆殺しにする命令を出したため、エジプトに避難しなければなりませんでした。

宣教活動を始めてからは、力強く神の教えを説き、病人を癒やしたり、悪霊を追い出したりしつつも、罪人として嫌われていた人々や、誰からの避けられていた重い皮膚病の人、悪霊に取り憑かれた人などの近くにいて、政治や軍事に関わるようなことがありませんでした。そして、結局十字架に付けられ、殺されてしまいました。

イエスは、殺されて三日後に復活します。しかし、それでもイエスはローマ帝国を追い出したり、反対勢力を組織したりすることはありません。イエスがもたらした救いとは、国や民族の解放という意味での救いではなく、神がすべての人を愛しており、神のいのちにすべての人があずかるよう招いておられるということだったのです。ユダヤ人でも、ローマ人でも、人々から賞賛されるような人も、誰からも避けられ、嫌われるような人も、力の強い人も、赤ん坊で、しかも難民という、明日には死んでしまうかもしれないようないのちであったとしても、神は確かに愛し、大切にし、たとえ死んでもご自分のいのちの内に生かしてくださる。何も心配することはない。イエスが示した救いは、そのような救いです。クリスマスとは、神がどれほど、例外なく、すべての人を愛しておられるかが示されたときなのです。

さて、イエスは、ベツレヘムで生まれました。ベツレヘムはエルサレムから南へ9キロほど行ったところにあります。わたしはエルサレムにも、ベツレヘムにも行ったことがないのですが、ベツレヘムはいわゆる「ヨルダン川西岸地域」と呼ばれる地帯にあり、イスラエルによる入植が、ベツレヘムの町の周りでも行われているそうです。2023年10月7日に紛争が激化して2回目のクリスマスを迎えますが、ニュースによると昨年も、今年も、ベツレヘムに巡礼や観光に来る人はおらず、しずかにクリスマスを迎えているそうです。ひっそりと、紛争におびえながら迎えるクリスマス。まさに、闇の中を歩む民は光を見た。死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。そのようなクリスマスをベツレヘム、パレスチナの人々は迎えておられるのではないでしょうか。

皆さん、クリスマスは世界中で祝われる日です。世界で最も多くのイスラム教徒が住むインドネシアでも、世界で最も多くのヒンズー教徒が住むインドでも、クリスマスは国民の休日です。メリークリスマスとか、ハッピークリスマスとか言いますよね。特に何か良いことがあるわけでもなく、戦争も続いていて、自然災害で苦しんでいる人もいる。でも、この日は、メリーとか、ハッピーとか、挨拶で誰にでもいうことができる日。すべての人に対する救いが表された日だからです。

その、すべての人に対する救いの知らせを受けて、すべての人が大切にされるよう、クリスマスに、世界中で平和のために祈ることが習慣になっています。ジョン・レノンの歌で、Happy Xmas [War Is Over]という歌があり、この季節に世界中で歌われますが、まさにクリスマスの平和の祈りの歌だと思います。

「祈る」というのはどういうことでしょうか。平和になりますように。という祈りを捧げるのは素晴らしいことだと思います。でも、もし自分がいつも周りの人といつもけんかをしていたとしたら、どうでしょう。自分のことを棚に上げて、世界の平和を祈るのは、どうかと思います。

重要なのは、自分が祈ることと、ささやかでも、自分の生き方、自分の行いが同じ方を向いているとき、その祈りはより大きな力を持つものになるということです。つまり、神に祈るし、自分でもそのために行動するということですね。それは、たとえ自分がたいしたことをできなくても、自分の弱さを神様が補って、助けてくれるということでもあります。

もう一つ、祈りについて考えてみましょう。皆さん、戦争で苦しむ人々、例えばウクライナの人のために祈って、それが戦地にいる人たちに何か役に立つと思いますか?わたしは、神が必ず私の祈りを聞いていて、何らかの形でそれを届けてくれる。役に立ててくれると心の底から信じています。東日本大震災の時にわたしは5日後に仙台に行って、2年間留まり、カトリック教会としての支援活動の調整役として働きました。最初、何をしたらいいのか、何ができるのか、全くわからず、今から思えば大変おこがましいのですが、東北太平洋沿岸数百キロで亡くなった人、苦しんでいる人たちの苦しみを背負わされているような気持ちになりました。でも、毎日、世界中の友達や知り合いから、お祈りしているよ、何かできることがあったら言ってね、とメールが届いたんです。百通以上メールが来ました。世界に、こんなにもたくさん、被災した人のために神に祈っている人がいる。わたしのことを心配している人がいる。メールをくれた人だけでなくて、世界中の知らない人が、知らないところで神に祈っている。募金をしたり、協力してくれている。そう考えるだけで、もう、ものすごい大きな力が、生きる力が、前に進む力がわいてきました。人のために神に祈るということ。その祈りにあわせて、何か小さな事をするということ。それは、ものすごく大きな力のあることです。

クリスマスには、世界中の人が平和な世界のためにお祈りします。神様は、そのすべてに耳を傾けて、何らかの形で役に立ててくださる。そして、世界中で平和のために祈る人は、それぞれの場で平和のために小さな行動をします。自分の生きている地域が平和になるように、笑顔で挨拶したり、ゴミを拾ったり、お年寄りに親切にしたり、奉仕活動をしたり、寄付したりします。

皆さん、クリスマスに世界中の人が平和な世界のために祈るということは、世界中が少し平和になるっていうことです。わたしたちも、その一部として、今、新潟を、世界を平和にしているんです。それって、すごく素敵で、力強いことだと思いませんか?

これから、少しの間、沈黙の内に、神が、わたしたちと、すべての人を大切にしてこの世に来てくださったことに心を留めましょう。そして、この日に世界中で平和を祈る人々と心を一つにして、平和の祈りを、自分自身の生き方としていくことができますように、神の恵みと導きを祈りたいと思います。

成井大介司教