2025年 新潟教区 聖香油ミサ

新潟教区では毎年聖週間の水曜日に聖香油ミサを行っています。今日、新潟教会にて午前10時から聖香油ミサが行われ、新潟県、山形県のほぼ全員の司祭、そして秋田県からは代表として地区長が参加し、合計19名の共同司式でミサが捧げられました。

新潟教区司祭団が、司祭としての召命を喜びのうちに生き、またシノドスを通して識別された、ともに歩む役割を人々との協力のうちに果たしていくことができるよう祈り、そして、新潟教区に司祭の召命の恵みが与えられるよう、祈りました。

なお、4月16日は新潟教区司教座教会献堂記念日となっていますが、これは1962年4月16日に、新潟知牧区が新潟教区に昇格したのに伴い、新潟教会が司教座教会となったことを記念するものです。教区になって63歳の誕生日を祝う新潟教区の上に、神が祝福と導きを与えてくださいますよう、あわせて祈りました。以下、説教です(シノドス最終文書の抜粋は、成井による試訳です)。

成井大介司教

今、教会は大きな変化の時を迎えています。2021年から2024年にかけて行われたシノドスは、現在カトリック教会が抱えている課題について、世界中の小教区における話し合いを踏まえ、聖霊がどのように私たちを導こうとしておられるのか識別しました。私たち自身が、それぞれの小教区でこの識別に取り組んだわけです。昨年出されたシノドス最終文書に、私たちをはじめ、世界中の信者の識別の結果が反映されていったという意味で大切な事だったと思いますが、なにより、私たちがそれぞれの共同体で聖霊の導きに心を開き、共同体としてともに識別するということを経験したことそのものが、とても意義のあることだったと思います。この、各小教区における識別も、世界の教会としての識別も、昨年末の第16回シノドス総会の終了とともに終わったのではなく、ともに識別し、ともに責任を持って歩む、シノドス的な教会、ともに歩む教会として進んでいくプロセスの一ステップを終えたということであって、その歩みはこれからずっと続いていくものです。

司祭として神から招かれ、養成を受け、叙階され、派遣された私たちは、この「シノドス的な教会」においてどのような役割を果たすべきでしょうか。ここで、シノドス最終文書を参考に考えてみたいと思います。

今年の年頭司牧書簡でも紹介しましたが、シノダリティとか、シノドス的な教会、つまりともに歩む教会というものは、ともに歩むこと自体が目的なのではありません。最終文書は、シノダリティの目的について、次のように述べています。

シノダリティはそれ自体が目的なのではありません。 むしろ、キリストが聖霊によって教会に託された使命に奉仕するものです。(32項)

この使命とは、宣教です。つまり、私たちがシノドス的な教会を目指すのは、教会が、司祭も信徒も、教会に来れる人も来れない人も、日本人も海外出身の人も、みながともに歩むためではなくて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」マルコ16.15)というイエスの言葉に従ってともに宣教するためなのです。教会共同体がともに歩もうとするとき、様々な理由で意見がぶつかることがありますが、キリストから託された宣教にともに参加するという目的は、私たちを一つに結んでくれます。

宣教は、洗礼を受けたすべての人々の役割です。女性と男性信徒の第一の務めは、福音の精神を世界の現実の中に浸透させ、世界を変化させることです(66項)。

信者一人ひとりが、家庭、学校、職場、施設など、それぞれの場で福音の精神を生きることを通してこそ、宣教することができるのです。司祭や修道者ができる宣教は、その一部です。その意味で、司祭は、自らが個人的に宣教に取り組むことも大切ですが、より重要なこととして、教会共同体が、宣教する共同体としてともに歩むために奉仕するべきでしょう。

そのような意味で、司祭は、「信徒とともに宣教するということ」と、「信徒とともに宣教者を養成し、また養成されること」を大切にしていかなければならないと思います。

最終文書は、司祭について次のように述べています。

シノドス的な教会では、司祭は人々に寄り添い、すべての人を歓迎し、耳を傾け、シノダリティに自らを開くという態度で奉仕するよう求められている。司祭たちは 「司教と共に一つの司祭団を構成」(LG 28項)し、特に一致の奉仕に注意を払いつつ、カリスマを識別し、地域教会に寄り添い導くことにおいて、司教と協力する。彼らは司祭団としての連帯のうちに生き、司牧的奉仕のために協力するよう召されている。(72項)

シノドス的な教会を目指すにあたり、司祭団としての連帯、一致が強調されています。これは、当然ですが、司祭が司教の言うことを聞くとか、個人としての意見を出さないというようなことではありません。むしろ、新潟教区がシノドス的な共同体としてともに歩んでいくために、どのようにすればいいのか、司祭団が皆で識別し、その結果にそれぞれ責任を持って取り組んでいくということだと思います。各地区における司祭の協力をはじめ、司祭評議会や、年に一度の司祭の集いにおける共同識別をますます大切にしていきたいと思います。最終文書は続けて修道司祭について語ります。

奉献生活者の会や使徒的生活者の会の会員である司祭もまた司祭団の一部であり、そのカリスマの独自性によって司祭団を豊かにする。地元の聖職者が教会全体の視野に開かれるのを助ける一方、教区の司祭は、彼らの同胞が、その伝統と霊的な豊かさを持つ具体的な教区の歴史の一部となるのを助ける。このようにして、宣教を見据えた真の賜物の交換が司祭職においても行われるのだ。司祭もまた、特に司牧の初期段階において、また、弱さやもろさの瞬間において、同伴され、支えられる必要がある。

新潟教区においては、フランシスコ会、イエズス・マリアの聖心会、神言会の司祭とともに司祭団を形成しています。それぞれの会のカリスマ、また、文化的背景が新潟教区司祭団に新しい風を吹き込んでくださることは、本当に重要なことで、単に司祭の数が増えるということではなく、多様な方法で人々を導く聖霊の働きの豊かさを司祭団にもたらしてくださっています。新潟教区司祭団の一員として、教区の歴史、教区の文化を大切にし、教区司祭と修道会司祭の交わりのうちにともに歩んでいけたらと思います。

シノドス最終文書は、続いて次のように述べます。

今シノドス総会中に、司教、司祭、助祭の喜び、献身、奉仕に対する感謝が何度か表明された。また、司牧者がその奉仕の中で遭遇する困難も聞かれ、主に孤独感や孤立感、またあらゆる必要を満たす要求に圧倒されることなどが挙げられた。(74項)

司祭も、修道者も、信徒も、司教も、ともに福音を生きていて、それは私たち新潟教区という大きな共同体にとって大きな喜びです。

しかし同時に、司祭という召命は、最終文書が語るように、困難なものです。特に今のような、大きな変化の時にあっては、なおさらだと思います。以前と違い、すべての司祭が幼稚園の園長という時代ではありません。司祭も信徒も高齢化が進んでいます。外国籍の信徒が増え、コミュニケーションもままなりません。また、司祭として自分に何ができるかという個人の課題もさることながら、自分の弱さ、自分の足りなさ、自分の間違いを、協力的な視点から指摘し、ともに歩んでくれる人はなかなかいません。このことから来る孤独は厳しいものです。だからこそ、司祭団としてともに歩むことが大切ですし、同時に信徒や協力者との信頼関係を深めていくことが大切だと思います。

最終文書は続いて司祭と信徒の協力について述べます。

今総会での経験は、司教、司祭、助祭が、神の民の他のメンバーとの協力も必要とする聖職の遂行において、共同責任を再認識する助けとなるだろう。任務と責任の配分をより明確にし、何が叙階された聖職にふさわしく、何が他者に委ねられるのか、また委ねなければならないかについて、より勇気をもって見極めることは、それぞれの聖職位階において、霊的により健全で、司牧的によりダイナミックな方法で聖職が行使されるよう促すだろう。

この度のシノドスにおいては、共同識別と共同責任という言葉が繰り返し強調されています。以前、司祭が主に行っていた識別、決定、実行は、ともに識別し、ともに意思決定プロセスに関わり、ともに実行するというスタイルに変化しました。小教区評議会、今、組織再編が進んでいる、地区協議会、教区宣教司牧評議会という仕組みは、共同識別、共同責任を助ける仕組みです。

最終文書はこのことについて次のように述べています。

宗教と文化の多様性、霊的・神学的伝統の多様性、聖霊の賜物と共同体における任務の多様性、そして教会内の年齢、性別、社会的所属の多様性は、各自が自己の偏愛を認識し、それに立ち向かい、自分が中心であるという主張を放棄し、他の視点を歓迎するために心を開くように、という招きである。一人ひとりが、共通の仕事を完成させるための、特別で不可欠な貢献を担っているのである。多様な楽器は、音楽の美しさと調和に命を与えるために必要であり、その中で各楽器の声は、共通の使命のためにそれぞれの特徴を保っている。その位格そのものが調和である聖霊は、このように教会にもたらされる調和を表している。

今日聖別される香油は、すべての洗礼を受けた人に注がれる油です。司祭も、信徒も、私たち皆が、主の死と復活を宣べ伝えるという同じ使命、同じ油を受けたものとして、歩みをともにしていくことができますように、今日、改めて思いを新たに致しましょう。