御復活おめでとうございます。今日の新潟は曇り空でしたが、聖堂がいっぱいになるほど多くの参列者とともに復活の主日日中のミサを祝いました。主任司祭の田中神父は佐渡教会でミサでしたので、協力司祭の町田神父、そしてお隣の青山教会協力司祭のフック神父との共同司式でした。
ミサの後は復活の卵が配られ、また昨日洗礼を受けられた方(残念ながら一人は都合で参加できず)とともに、祝賀会が行われ、美味しいカレーとベトナムの揚げ春巻きがふるまわれました。喜びあふれる一日に感謝。以下、説教です。
成井大介司教
カトリック教会は、ここ数年シノドスの旅を通じて、ともに歩む教会であろうと努力してきました。今日、この復活の主日のミサには、きっと普段なかなか教会に来ることができない人が参加しておられることと思います。そして、何とか参加したかったけど、できなかったと残念に思っておられる方がもっとたくさんおられると思います。言葉があまりわからないけれども、せめて復活祭だけは参加したいと願って、一緒に祈っている方も多いと思います。みなさん、今日、こうしてともに御復活を祝うことができるのは、素晴らしいことです。よく来てくださいました。来ることができなかった方、離れていても、心を合わせて祈れるのは、素晴らしいことです。
キリストは、ご自分の死と復活によってすべての人を救いに招きました。キリストがぶどうの木で、人々がその枝と教えられているように、復活の神のいのちに生きるということは、キリストによって、すべての人とともに生きるということなのです。ですから、今日、御復活の主日にあたり、特に私たちは、教会に来ることのできる人、できない人、地域の関係者、すべての人と心を合わせ、キリストによってともに歩んでいるという思いを強めたいと思います。
さて、私たちが祝っている御復活は、イエスの十字架上の死と、死者のうちからの復活を記念するものです。しかし、そこで言われているのは、ただ死んだ人が生き返ったというようなことではありません。それは、神のいのちに生きるということであり、神の独り子が人として死に、その死の闇を打ち破って復活するという仕方ですべての人に対する救いを、愛を、示されたということです。今日は、神のいのちに生きるということについて考えてみたいと思います。
昨晩、復活徹夜祭で、救いの歴史について伝える聖書の箇所が朗読されました。一番初めに朗読されたのは旧約聖書の創世記で、天地創造の場面です。この世界を、すべてのいのちを、神がどれほど大切に創造されたのか、伝わってくる場面です。中でも、人間の創造は特別で、神は人をご自分にかたどって、神にかたどって創造されました。これは、神がどれほど人を大切にし、愛しているかということが表されたものです。
すべてのものが造られた後、それらについて聖書は伝えます。「見よ、それは極めて良かった」。
神は、造られたものすべてを極めて良いものとして造られましたが、同時に、造られたものが、全体として、極めて良いものとして造られたのです。私たちが生きている世界は、絶妙なバランスで成り立っています。どんな生き物も、他の生き物や光や水、空気などの環境がなければ生きていけません。すべてのいのちがつながっていて、互いが互いを必要としているのです。人間は、その交わりの中で生かされています。
ところで、いのちが新しく誕生することを、受け身の言葉で表します。日本語だと、生まれる。英語だと、I was born. 誰も自分の意思で生まれることはできないので、生まれると表現するのだと思います。また、いのちが亡くなるときも、息を引き取るというような表現を使います。いのちというものは与えられるものだという理解が、無意識のうちに人間にはあるのではないでしょうか。
すべてのいのちが、与えられているものであるということ。つながりあって、互いに相手が生きるために必要な存在であること。そのように私たちの世界が造られたということを忘れ、自分がいのちの主人であって、自分のいのちも、他のいのちも自分が自由にできると思うとき、全体として極めて良いものとして造られたこの世界のバランスが、秩序が壊されていきます。
今、世界は、困難に直面しています。人間は、いのちが豊かに育まれるための環境を破壊し続けています。世界は、人間の尊厳や、国の主権の尊重といった、人類が歴史の歩みの中で築き上げてきた価値や原則を、まったく無視しているかのような状況です。「御復活おめでとうございます」と言うのがためらわれるほどです。
わたしたちが生きている日本の文化は、福音的価値観にそった素晴らしいものもたくさんあります。しかしコロナ禍以降、特に、自己責任の文化が強まっているように思います。他人に迷惑をかけない文化。自己完結で、助けることも、助けを求めることもない文化。
そして、人の役に立たないと居心地が悪くなる文化。つまり、存在が尊ばれず、何かができることが尊ばれる文化。
また、たくさん造り、たくさん消費し、たくさん捨てる使い捨て文化。ものどころか、人までも使い捨てる文化。そうやって、環境も、人も破壊されています。自分たちを守るためといって、人を殺す文化。それに無関心になる文化。
神は、こうした問題のある世界の中に働かれます。イエスは、殺されたときと同じ、問題だらけの世界に復活されました。そして、その手と足、脇腹には傷がついたままでした。これは、神が、問題だらけの世界の中で、人々を神のいのちの交わりに招いておられるということではないでしょうか。私たち一人一人、そして共同体が、日々いのちの尊厳を大切にして生きていくようにと招いておられるということではないでしょうか。
今年、カトリック教会は聖年を祝っています。この聖年の成り立ちに関係しているのが「ヨベルの年」で、旧約聖書のレビ記25章で説明されています。これは、50年に一度巡ってくる年で、この年には畑を休ませたり、人に売った土地が返却されたり、同胞のしもべが解放されたり、負債が免除されたりします。
この習慣が、カトリック教会では25年に一度巡ってくる聖年として受け継がれています。ですので、聖年はただ単に全免償が受けられる年というのではなく、神の前にすべての人が尊く、権利を侵害されていたらその状態を解消し、持ち物を搾取されていたらそれを返し、負債から解放され、土地も休む。言ってみれば、神が極めて良いものとしてお造りになられたその世界を取り戻す年と言うこともできるのではないかと思います。
いのちというものは、決して、食べ物、飲み物、家など、肉体的に生きるための条件がそろっていれば生きていけるというようなものではありません。人が、命のつながりの中で生きているというのは、決して環境や食物連鎖のことだけではなく、困難にあるときにともにいてくれる人がいるとか、遠くに自分のために祈ってくれる人がいるとか、何より神が自分をこの上なく大切な存在として心にかけてくださるということがなければ、健全に生きていくことができません。神がお造りになった命が十全に生きるためには、教皇フランシスコが『ラウダート・シ』で教えた、神と、人と、被造物との調和を保たなければならないのです。
イエスが私たちに示してくださった復活という出来事は、肉体的ないのちの復活という側面もありますが、何より神のいのちにあずかるということです。いのちの源、いのちの与え主である神のいのちのうちに生きるということです。
復活のいのち、神のいのちにあずかるということは、他の人を誰をも必要とせず、この世界のすべても必要ではなく、ただ自分と神様だけの関係に入るというようなことでは決してありません。神が造られたすべてのものとのつながりのうちに、神のいのちにあずかるのです。
それは、私たちが死んだ後、そうなればいいということではなく、むしろ今、すべてのいのちを大切にするということが、復活のいのち、神のいのちの交わりに生きるということなのだと思います。
今年の聖年のテーマは、「希望の巡礼者」です。
教皇フランシスコは、今年の聖年を公布する大勅書「希望は欺かない」で次のように述べています。
すべての人にとって聖年が、救いの「門」である主イエス(ヨハネ10・7、9参照)との、生き生きとした個人的な出会いの時となりますように。教会は、主イエスを「わたしたちの希望」(一テモテ1・1)として、いつでも、どこでも、すべての人にのべ伝える使命をもっています。
マグダラのマリアは、自分が見たこと、墓が空になっていたことを弟子たちに告げました。これが、主の死と復活を告げる宣教の第一歩で、2000年の年月をかけ、多くの人々が思いを込めて、この喜びの知らせを周りの人に伝え、今日私たちも御復活を祝っています。私たちがその喜びのうちに、日々の生活の中で、神のいのちに生きる希望を証していくことができますように。